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ハイビスカスの女

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ハイビスカスの女

 京都での二年目の大学生活は閉塞していた。
 『嵯峨野の女』(前作)に翻弄されたトラウマから癒えていなかったし、生活費を工面するバイトに追われてサークルに属する余裕もなかった。友達は高校の同窓かバイト仲間に限られ、たまに出席する授業は大教室の講義で白けた。そのうえ、古都の住民の愛想良い言葉と裏腹な、人を値踏みする計算高さに馴染めなかったし、寺社や町家の密集する古い町並みに重苦しい伝統しか感じなかった。
 僕は単純素朴で明るい世界に憧れた。
 単純素朴で明るい世界・・そう、太陽の下で寝て喰うだけのシンプルな生活。嵯峨野の女の影響だろうか、僕も南の島で暮らそうと思った。ランボーの『地獄の季節』を携えて、大阪南港から琉球弧を南下する旅に出た。
 一月余りの放浪の末辿り着いたのが、日本の西端、西表島の某集落であった。椰子の木やバナナの生い茂る入り江に赤瓦の琉球家屋が密集していた。白い珊瑚の砂浜、集落を包む濃緑の福木の並木、ハイビスカスの咲き乱れる家々は、京都と同じ日本と思えなかった。南海のもう一つの日本、亜熱帯のエキゾチックな風景、明るく大らかな南国の人々に魅せられた僕は、役場で空き家を紹介してもらい暮らし始めた。

 一

 村に住み着いて間もなく、台風が通過した昼下がりであった。
 台風一過、空は抜けるような青さであったが、外洋のうねりは高く、一隻のヨットがヨタヨタしながら入港した。帆をやられたのか、舵を痛めたのか、港の者が駆け寄ると日焼けした青年が手を振った。
 「舵の効きが悪くって、停泊して良いですか?」
 岩壁に上がった青年は船旅のせいか足下がふらついた。蓬髪は塩を浮かべ、赤銅色の顔に眼が光っていた。放浪で髭面の僕に近付くと唇に指を当てた。
 「タバコ、ある?」
 僕と一緒に暮らすようになったKさんである。
 彼は目を細めてタバコを旨そうに吸った。大変だったでしょうと慰めると、久しく喋ってないからだろう、言いにくそうに呟いた。
 「ヨットは転覆しても復元するよう造られている。・・台風は外洋でやり過ごせばいいんだ。島に近づくと危ない。岩に叩きつけられるとひとたまりもない。」
 台風の波は山のようだと言うじゃないですかと言うと頷いた。
 「山と言うより壁だね。船は海の壁に張り付いた木の葉さ。滝のような壁をせり上がるとポッと放り出される。今度は一気に滝壺目がけて落ちていく、ジェットコースターさ。」
 「それが延々と繰り返される。これでもか、これでもかと続く。俺は嘔吐しながら転がり続ける。人間は虫けら以下だね。無神論者の俺もさすがに神に祈るよ・・」
 いまだうねる沖合を見つめながら続けた。
 「陸は嵐を避けるところがあるだろ。岩陰とか、樹林とか、人家とか。無線で連絡出来るし、誰かが来てくれる。」
 「海は逃げるところも、隠れるところもない。嵐が収まるまで独りで闘うしかない・・」
 黒光りする締まった身体から外洋をさすらってきた男の孤独と疲労が漂っていた。
 Kさんは東京の建築家で日本一周にチャレンジしているのだと言った。僕が放浪中で空き家に住んでいると言うとしばらく休ませてくれないかと言い、僕らは一緒に暮らすことになった。ヨットマンのKさんと潜水の得意な僕はすぐに意気投合し、僕は最南端の波照間に行くつもりであったが、彼の八重山海クルージングにつき合うことになった。

 そんなある日、意外な人物がKさんを訪ねてきたのである。
 村の峠にハイビスカスの群生があり、南国の青空の下で真っ赤に咲き乱れている。そこを一台のタクシーが土埃を舞上げながら降りてきた。黄色のタクシーは本港のもので、本港からタクシーが来ることは滅多にない。
 村の者が何事かと注目していると、タクシーは波止場で急停車した。つば広の日よけ帽にサングラスの女が颯爽と降り立ち、大きな旅行鞄を片手に漁港を見渡した。潮風が歓迎するように吹き抜け、白いワンピースが爽やかにひるがえった。
 女の周りがひときわ明るくなった。南国の光に弾けるハイビスカスのようである。僕ら港の男はオーッと色めき、子供たちがワーと駆け寄った。女が子供たちに何事か尋ねると、彼らは一斉にヨットに走った。デッキで作業しているKさんを認めると、女はささやくように呼びかけた。
 「Kさ~ん」、鼻にかかった甘い声である。
 Kさんは驚いて振り向いた。日焼けした顔をクシャクシャにしてオオ~ッと驚声を上げた。眩しいような、照れたような、ひどく驚いた様子であった。
 嬉しかったのだろう、女は波止場に上がった彼に抱きついた。彼は女のサングラスを取って懐かしそうに見つめた。女の顔が喜びに輝いている。
 「久しぶりだな、元気か?」
 甘えるように頷いた女は口づけしようとしたが、彼は身体を離した。ここは沖縄の僻村でリゾートでない。大人の彼は周りへの配慮があった。Kさんは僕を手招きした。
 サングラスを取った女は睫毛(まつげ)が長く、瞳が潤んで見えた。二〇代後半か、上品な顔立ちと伸びやかな肢体は育ちの良さを思わせた。凄い女だ!さすがKさんだ!と僕は感心した。Kさんは照れくさそうに紹介した。
 「俺のフレンド?それとも・・A子です。スッチーしてま~す。」
 僕は軽く会釈した。
 「Kさんと空き家で暮らしているTです。京都で学生してます。よろしく・・」
 A子は大きな目を丸くして驚いて見せた。
 「まあ~京都なの!うちは実家も大学も京都なんよ。初めまして・・A子と言います。Kさんのヨットに乗せてもらおうとやってきました。よろしゅう・・」
 僕はあれ?と思った。Kさんは彼女とクルージングするんだ。なぜ僕を誘ったのだろう?鼻にかかった柔らかな京都弁が懐かしかった。

 二

 その夜、僕らの空き家は突然にぎやかになった。
 A子の噂を聞いた村の男たちが一目見ようと押しかけてきた。勝手に家に上がり込み酒食を広げ、彼女目当てに宴会を始めたのである。客馴れした彼女は巧みにあしらったが、さすがに疲れていた。Kさんが「長旅で疲れている、休ませたい、引き揚げて欲しい」と村役に頼んだ。彼は「はるばる来られた客人を疲れさせてはいかん」と、早々に宴会を終了させた。
 名残惜しげな村の男たちは締めに『安里屋ユンタ』を踊った。ユンタは本土の盆踊りと同じであるが、手の返しが独特である。A子は日舞の心得があるのだろう、三(さん)線(しー)のリズムに乗ってしなやかに舞った。月明かりに照らされ、優雅に手を返して舞う姿は艶やかであった。それは満月に揺らぐ大輪のハイビスカスを思わせた。
 引き上げるとき時、男たちは口々に「明日も頼むぞ~」と念を押した。この調子では明夜も必ず来るだろう。ヨットの修理はほぼ終わっている。Kさんは明朝出港すると決めた。僕らは夜なべで荷物をまとめヨットに運んだ。
 その夜、A子は二人きりになりたかったと思うが、僕らと雑魚寝した。
作品名:ハイビスカスの女 作家名:カンノ