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こわっぱ・竜太

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 あくる日は、昨夜の月が嘘のように、朝早くから雨が降り出していたので、みねはいつもより早めに家を出る。布子の作業着と藁の長靴に身を固めたみねは合羽をその上に羽織っていた。
「道はぬかるむから転ばんように用心して歩くんだよ」
 とよが、みねの背中に声を掛ける。
 この朝は、ゆうべの残りご飯に焼鮭を乗せて、ぶぶをかけて掻き込む。魚は小浜から早掛けで運ばれてきたものを買い、塩漬けにして蓄えてある。ちょうど良い塩加減に漬かったものを取り出している。みねには、塩鯖を権左衛門さんに差し上げよと言って持たせてやった。鯖は小浜から負い籠を背負って運んできた生鯖を買って、とよが塩を按配したものである。
 みねは、藁に包んだ鯖を合羽の上から肩に掛けて出掛ける。その後姿がたくましい男のように見えるのは、今朝のみねには、問屋場での仕事が忙しいものになるという予感があったからであろう。一種の気負いのようなものを背負っていたのである。
 とよは、みねが仕事に気負いを感じていることなど全く無関心で、権左衛門がみねに会えば自分と権左衛門が話し合ったことを、権左衛門がみねに言ってくれるだろうと期待していた。みねに鯖を持たせてやったのは、みねが権左衛門に会う機会をつくるためだと、とよはおもいながらみねを見送ったのである。
 雨足は速く、降りかかる雨粒は、小走りに走るみねを銀の糸に絡むように見えた。それを突き破っている先に問屋場が姿を現している。問屋場があるのは宿場の中心部の中の町である。その手前の下の町を通過するときみねは、自分たちの店であった旅籠屋の前を通った。旅籠屋の看板は「仁三宿」から「越後屋」に変わっているが、建物は以前のままで、みねは懐かしい思いで横目を走らせながら通り過ぎる。毎日この道を通っているのだから、
見慣れているのだが、無意識に目は旅籠に向かっている。旅籠の前や中の人の動きが気になるのだ。
 まもなく問屋場に着くと、荷駄や人馬がごった返していた。雨に追われるようにして駆け込んで来たのであろう、頭に載せた笠も肩に羽織った合羽や蓑も雨の雫を落としている。
みねは、慌てるように荷受の帳場に駆け込んで仕切帳を手にすると、小僧が読み上げる荷札を確認しながら帳面に書き留める。その間に荷物は送り場に仕分けして並べられる。荷駄が頻繁に出入りするので騒々しい。
 小浜から京都にこの街道を通って魚類を運ぶ漁師や行商人もここを通過する。問屋場で荷降ろしする者もいて問屋場の連中は常得意である。みねもその一人で註文して置いた魚を受け取るのを楽しみにしている。今朝も雨の中を運んできた行商人から鯖を受け取る予定だった。ところが馴染みの行商人・甚助はまだ着いていない。
 みねは、忙しく働きながら、目を外の荷駄に向けている。いつもなら黒毛の駄馬を曳いて来るのだがその馬が見当たらない。雨が激しいから休んだのだろうとみねは半ば諦めて、仕切り場に戻る。それからしばらくしたとき、こわっぱ風の男の子が荷を背負って来て不安そうな顔で問屋場を覗き込んでいた。それを見咎めた店の男衆がこわっぱに近寄って誰何すると、親父の甚助から頼まれた荷を持ってきたという。それを聞いた男衆が荷受場にゆくように指示した。
「甚助さんはどうしたよ、今朝はこれなかったのかね」
 みねが近寄ってきたこわっぱに尋ねる。
「あんたさんがみねさんね。親父は熊に襲われて怪我しとるから来れんよ。俺が代わりにやってきた。鑑札ももっとるよ」
 こわっぱは腰帯に紐で吊るした行商鑑札を手にとって見せた。その顔はまだあどけないが、苦労をしてきたのか大人に対等の応対が出来る根性を見せていた。
「甚助さんの傷は深いのかね」
「当分は働けんよ、胸を咬まれとるし、足の骨も折れとる」
「そんなに酷いのかね」
「背中に抱きつかれて転んだときに、道から崖下に落ちたんだと言ってた。そのときに猟師に発見されて助かったんだそうだ」
「熊は射止められたのかね」
「そうだ」
 こわっぱはこれ以上話をしたくなかったのか、品物の代価を受け取ると直ぐ帰ろうとした。すると、みねが、次の注文を集めるから待っておいでとこわっぱを引き止める。
「甚助さんは、注文を持って帰るまで動かなかったよ。そう言われて来なかったの?」
 みねに言われてこわっぱは急に思い出したようだった。
「そうだ」
 こわっぱは胸元から使い古した皮表紙の手控帳を取り出す。それは甚助の使っていたものだと、みねは直ぐにわかった。すると、皮表紙のくたびれた皺が甚助の見慣れた顔の皴に見えたのである。
「甚助さんに、あんたのような子がいるとは聞かなんだ。いくつだえ、いつもは何をしとるのかね」
 みねは、いたわるような目で見ながら、自分が集めた注文の品をこわっぱに書き取らせる。こわっぱはかじかんだような手で矢立の墨壷のふたを開けて小さな筆を墨に濡らしてから書き止めている。
「竜太というんだ。十三歳だよ」
 こわっぱは筆を走らせながら答えている。みねは、そのあどけない顔を見やりながら、けな気に働く姿を頼もしく感じていた。年端もいかないこの子が親に代わって遠い道を荷を背負ってやってきたのに、みねは感心している。そのとき、ふと、権左衛門さんに会わせてやろうという気持ちがみねの心に湧いた。その理由は自分でもわからないのだが、「そうしよう」という決断が生まれている。
「旦那さんは、今日は何処にいなさるのかね」
 みねは大声で尋ねていた。その声の届く先から、「役所だえ」と、女の声が帰ってきた。こわっぱは帰ろうとしている。みねはそれを引き止めて、
「しばらく其処で待ってなよ。旦那さんに引き合わせてあげるから」
 と言い残して仕事に戻る。みねはこのこわっぱに何を感じたのだろうか、始めて会ったというのにたいそう気に入ったようである。こわっぱは怪訝な顔でみねの姿を追っていた。

                 三
 みねと竜太が上ノ町にある役所に向かっている。空の黒雲は千切れるように流れ、白い空が覗いている。雨はあがっていたが道はぬかるんでいるので、二人は滑らないように注意して足を運んでいた。歩きながらみねは、竜太に話しかけている。
「甚助さんは仕事に戻れるのか」
「それはわからネエ」
「もどれなかったら、お前さんはどうするんだよ」
「親父の変わりに働くしかネエ」
「お前さんはまだこわっぱだから、行商人の仲間に入れてもらえんよ」
「親父の株があってもかネエ」
 竜太は年の割にはませた口を利く。歩き振りもしっかりしていて、みねのほうが負けそうである。上ノ町まではもう少しで着く距離であるが坂道で歩きずらいので余計な時間がかかっている。往来する人の数が次第に増えてきているのは雨が上がったからであろう。
みねは竜太を権左衛門に引き合わせて今後のことを相談しようと思っていた。甚助は仕事を続けられないだろうからこの子に職をつけてやらねばならない。甚助さんには深い恩義があるから、恩返しをせねばと心のなかで思ってきたみねだった。
作品名:こわっぱ・竜太 作家名:佐武寛