数ミリでも近くに
「おはよ、健ちゃん」
「ん、おはよさん」
彼も朝は苦手な方なのだろう。いつも焦点の定まらない目で朝ごはんをつつく。
今日もいつも通り、パンとハムエッグ、ヨーグルトにコーヒーだ。
最後に部屋を出て来たのは晴人だった。パジャマのまま朝食を食べる三人とは一線を画し、ぴっちりスーツを着ている。
「あれ、みんな着替えしないの?」
「別に急がないし、汚れても嫌だし、パジャマのまま」
健人の声にうん、うん、と頷く二人。
「あぁ、そう――」唖然とする晴人だったが、空いている席につき、取り敢えず朝食を食べ始めた。
昨日までパンク色の強かった晴人は、一転して普通のサラリーマンになっていた。
葉子は「こういうギャプに女は惹かれるって雑誌の特集があったら上位に食い込む」と妄想を膨らませた。
それとは別として、髪型をまともにすれば、健ちゃんにそっくりだな、とも思った。まだメガネをかけていない健人と見比べる。種違いとは思えない。
「健人は今日、バイトはないの?」
スミカにそう問われると、いかにも眠そうな甘ったるい声で「無いから夕飯は家で食べる」と、食事当番のスミカに告げた。
晴人は、母親と健人のやりとりを見ているようで、その光景が微笑ましく映った。
晴人が幼い頃、両親が離婚し、親権は母が持った。母は別の男、つまり兄弟の現在の父との間にすぐ子供をもうけ、産まれたのが健人だ。
異父兄弟だが、自分と健人は母親によく似ていたし、年齢も近く、晴人は健人を可愛がった。
健人がやってる遺伝子のナントカから言えば、半分は同じ遺伝子でできている弟な訳で、可愛くない筈がない。
「ごちそうさま」
一番に席を立ったのは健人で、食器を洗浄機に突っ込むとすぐに部屋へと戻って行った。
「健人、毎日大学行ってんの?」
マグカップに入ったコーヒーに息を吹きかけながら晴人は二人に訊いた。
「行ったり行かなかったり?実験が進まない日とか、論文書いてる時は一日中家にいたりするみたいだよ。あとはバイト」
ね、と葉子に促し、彼女も頷く。
「健ちゃんは頭いいよね。羨ましい」
葉子はパンの最後の一切れを口にいれ、モグモグしながら言った。
「あれは親父に似たんだな。理学部の教授やってんだよ」
二人は「凄いねえ」と顔を見合わせた。理学部の教授である父の遺伝子を持つ健人と、持たない晴人。でも見た目は似ている。
「そうやってスーツ着て普通の髪型してると、健ちゃんと晴人ってかなり似てるんだね」
葉子は口の中身コーヒーで飲み下す。
「半分同じ遺伝子ですから」
席を立ったスミカは「みんなと同じように食洗機に食器を入れてね」と健人に伝えた。
.企み
「健ちゃん何だって?」
「もう一眠りするんだって」
今日は休日で、実験の中日に当たる健人は大学に行く必要がなく、自室のベッドで横になっていた。
研究の事を考えながら、階下の女性二人の会話に耳を傾けていた。
「健ちゃんと晴人って種違いの兄弟にしては顔がすんごい似てるけど、中身が全然違うんだねー」
葉子は部屋着のままでソファに寝転がり、テーブルにおいてあったお煎餅を一口齧ると、スミカはクスクス笑った。
「双子だって中身まで全く同じじゃないんだから、当然でしょう」
「そっか。晴人がスーツ着たあの姿は結構ショッキングだったな。健ちゃんが二人いるみたいで」
スミカは細くて白い脚を組み替えた。スミカはいつだって、身綺麗にしている。
「晴人の部屋って、葉子の部屋みたいに楽器が置いてあったり、ポスターが貼ってあったりするのかなぁ」
ルームシェアを円滑にするために、個人の部屋はプライベート空間とし、許可なく中に入る事は禁止になっている。
そのため葉子は健人の部屋の中はドアからしか見た事が無い。引っ越してきたばかりの晴人の部屋は勿論、見た事が無い。
「どんなんだろうね」
葉子はソファから身を起こし、スミカに視線を遣った。
「葉子の部屋からだったらベランダ越しに見えるんじゃない?」
「でも、何か覗き見みたいで悪いよ」
スミカはとんでもないとでも言わんばかりにソファにどっさり身を預けて言った。
「外から見るだけでしょー。それに本人も留守だし、覗いちゃいなよ」
「そう?じゃ、ちょっと見てくる」
小走りに自室へと向かう葉子の背中を見つめるスミカの瞳に、冷たいものが宿っていた事に、葉子は気づくはずも無かった。
「ちょっとだけ見えたけど、私の部屋にあるのと同じポスターが貼ってあったよー」
「シドなんとか?」
「シドヴィシャスね」
カーテンの隙間から見えたのは、シドヴィシャスのポスターと、写真立てだった。
「何の写真が分からないけどね。彼女だったりして」
全ての会話を、二階にいる健人は聞いていた。
ベランダから覗き見る事をスミカがけしかけた事も、全て聞いていた。音楽もかけずベッドに横になっていた健人には、全て筒抜けだった。
さて、スミカは何を企んでいるのやら。健人はうすら寒い思いがした。
「あ、おはよ。健ちゃんと晴人は?」
完全に寝坊をして朝食を独りで食べていた葉子の元に、部屋からスミカが降りて来た。
「おはよ。健人は部屋にいるみたい。晴人は朝早くに出かけて行ったよ」
「ふーん、そっか」葉子はコーヒーを一口飲んだ。
「私も今日、武と会う約束してるから、お昼前に出かけるよ」
「えー、じゃぁ私と健ちゃんだけか、居残りは」
葉子は昼食の事を考えていた。スミカがいないとなると、自分で昼食を作るか、健人とジャンケンをして何かを買ってくるか――。
「お昼、家政婦さん呼ぼうか?」
「あぁ、いいよいいよ。健ちゃんと何とかするから」
丁度良いタイミングで健人の部屋のドアが開き、彼が降りて来た。
「おう、健ちゃん、お昼どうする?スミカいないんだって」
健人はもしゃもしゃに寝癖がついた黒髪を手櫛で梳きながら考えている。
「うーん、葉子が弁当でいいなら、俺が買いに行くけど?」
葉子は、そのもしゃもしゃの寝癖を双眸で凝視した。
「よし、じゃぁ一緒に買いに行こう」
「あぁ」と気のない返事をし、ソファにドサっと座った。
「スミカ、ちょっと実験の事で訊きたい事があるんだけど――」
何なに、とスミカは少し嬉しそうにソファの対面に座り、健人の研究にアドバイスをしていた。
葉子はそれを聞くともなしに聞きながら、ゆっくりゆっくり朝ご飯を食べた。
スミカは部屋で出かける支度をしていた。彼氏である武と一泊旅行にいくらしい。
「健ちゃーん、お弁当買い行こうぜー」
一階から大きな声で葉子が叫ぶと、ややあって健人が帽子を被って降りて来た。
「あ、帽子だ」
「寝癖治らないから」
葉子はクスっと笑って高い位置にある彼の頭をポンポンと叩いた。
葉子には兄がいるが、離れて暮らしている。
幼い頃は「妹か弟が欲しい」と親にせがみ続けていたので、健人と一つ屋根の下暮らすようになった今、実の弟の様に健人が可愛くて仕方がない。
「健ちゃんは何弁当にする?」
葉子は斜め上にある彼の顔を覗き込むように見る。
さっと頬が赤らむのを悟られない様に、健人は被った帽子を少し深くする。