数ミリでも近くに
「焼肉弁当、この前食ったら美味しかったんだよなー」
「焼肉弁当かぁ、食べた事無いや。美味しくなかったら健ちゃんのおごりな」
彼の腕をポンと叩くと、健人は黒縁メガネの向こうで「はいはい」と苦笑した。
彼女の何気ないボディタッチの度に、健人は心を揺さぶられる。
白いビニール袋にお弁当を二つ入れ、健人がそれを提げた。バードハウスに向けて丘をの登る。
「上り坂はさぁ、後ろを向いて歩くと疲れない、とか言うよね」
そう言って葉子は健人の正面を向いて後ろ歩きを始めた。
「葉子、転ぶよ」
だいじょぶだいじょぶ、と言った傍から、段差に踵を取られ、尻餅をついた。
「やっちまった」
体勢を立て直そうとする葉子に、健人の大きな手が差し伸べられた。
「ありがと、健ちゃん」
その大きな手に掴まり、葉子は立ち上がった。デニムのお尻に少し、細かい石がついたので、手で払う。
健人は、葉子の少し少年ぽいところや、危なっかしさ、裏腹に時々見せる女らしさ、全てに惚れている。
勿論、本人に思いを伝えようとは思っていないが、「これまで一度も男と付き合った事が無い」という葉子の初めての人間が自分だったらいいのに、と思う事があるのは事実だ。
二人がバードハウスに帰ると、朝早くに出かけて行った筈の晴人が、ソファに座っていた。
「兄ちゃん帰ってたんだ」
健人はビニールからお弁当を二つ取り出し、「飯は?」と訊いた。
「俺は済ませてきた」
何故か晴人の鋭い目線が、葉子を追っている事に健人は気づいた。
「何、どうしたの」
晴人の目は険しく、眉間にシワを寄せている。
「葉子、俺の部屋、勝手に見に行ったんだってな」
「へ?」突然の事に葉子は目を丸くし、言葉が出なかった。何でそんなこと知ってるんだろう。
何も言えないでいると、晴人は畳みかけた。
「シェアハウスだから、人の部屋にずかずか入らないのは基本なんだろ。何なんだよ、何の理由があって入ったんだよ」
葉子は狼狽えた。
「べ、つに、用事があったとかじゃないし、入った訳でもないし――」
「じゃぁ何だよ、スミカが言ってたぞ。葉子が俺の部屋の中について話してたって」
「スミカが?」
健人が昼食の準備の手を止め、静かに口を開いた。
「兄ちゃん、それはちょっと違う」
「健ちゃん?」
葉子はその場に立ち尽くしたままで、晴人に痛い程睨みつけられていた。
「スミカがけしかけたんだ。兄ちゃんの部屋の中がどうなってるのか、ベランダから見えるんじゃないかって、けしかけたのはスミカだよ」
「健ちゃん、聞いてたの?」
うん、と俯いて帽子を脱ぎ、髪をくしゃっとした。
「何だってスミカはそんな事させたんだ?」
怪訝な顔で晴人は二人に問うた。
「分かんないけど――カーテン越しに中を覗いたのは本当だから、ごめん」
あぁ、と晴人は葉子の素直な謝罪に少し戸惑いを見せた。
「ただ、部屋の中には入ってないよ。私の部屋にあるシドヴィシャスと同じポスターがあったのと、窓際に写真立てが見えたぐらいであとは見てない」
晴人は下を向いていた顔をすっと上げ、「スミカは何がしたかったんだ?」と二人に訊いた。再度、純粋に問いたい、そんな感じだ。
葉子はスミカと親友でありながら、彼女の考えている事がよく分からないと言う事が時々ある。親友と思っているのは実は自分だけなのかも知れない。
時折、他人に対する彼女の冷徹さを感じる事はあれど、その矛先が自分に向けられる理由など、考えつかなかった。
冷静に考えていたのは健人だった。
「多分だけど――兄ちゃんが来てから、葉子と兄ちゃんが二人で盛り上がってるのが気に入らなかったって所だろ。スミカ、自分が中心にいないと気が済まないタイプ、でしょ」
控えめに、それでも要点を突いて話す健人に、二人はただ頷くばかりだった。
「確かに、会社でも常に周りに人が集まってるよなぁ」
会社でのスミカの行動を思い起こした。彼女のいるところには必ず人が集まっていて、その中心にいるのは他でもない、スミカなのだ。
「今後もシェアを続けていくなら、オーナー代わりのスミカと仲たがいはできない。今回の件は無かったことにした方が良いよ。それと、兄ちゃんと葉子もあんまりスミカを置き去りにしない事。さ、葉子、飯食おう」
ダイニングテーブルに置いたお弁当のふたを開け、葉子を誘った。
葉子は俯いたまま「うん」と返事をし、テーブルについた。明らかに葉子は沈んでいた。
親友だと思っていた人間に嵌められたかもしれないのだ。
暫く沈黙したままお弁当を食べていたが、ソファに身を沈めていた晴人が口を開いた。
「葉子、あとで葉子の部屋も見せてよ。それでちゃらにしよう」
葉子はその言葉に許された気がして、頭を激しく縦に振って頷いた。
健人はそれを見て、晴人が羨ましいと思ったし、悔しくもあった。
健人は葉子の部屋を見た事も、覗いた事も無い。
「健ちゃん、焼肉弁当うまいよ」
「だろ」
健人は言葉少なに焼肉弁当を平らげた。
.尾行
「へぇー、本当に同じポスターだなぁ」
葉子の部屋に入って来てすぐ、目についたそのポスターを見た。
「女の部屋の匂いがする」
「きもいんですけど」
掃出し窓を背に、部屋を見渡す。
「俺の部屋よか少し広いんだな」
晴人の隣に葉子が立ち、手を広げる。
「広いんだけどね、ピアノが場所とるし。そのうちギターの騒音も聞こえてくると思うよ」
晴人はギターに目を移した。
「パンク好きなのに、テネシーローズか。何か、可笑しいな」
「ギター好きとパンク好きは関係ない。ただ単にギターが好きなの」
「何か弾いてよ」と言われたが、葉子は首を横に振って断った。
ずっとピアノを習っていた。ある事を切っ掛けにパンクロックにのめり込み、ギターに興味がわいた。
ちょっとした興味でギターを買いに行き、楽器屋に並ぶギターの中で一目惚れしてしまったのが、グレッチのテネシーローズだった。ローンを組んで買った。
それからは独学でギターを学んでいるが、改まって人に聞かせられるレベルではないと思っている。
「晴人は楽器やらないの?」
「俺は聴くのと暴れるのが専門だな」
葉子は掃出し窓から外を見た。レースのカーテン越しに、ある人物が立っているのが見えた。
「まただ――」
葉子の視線の先にいる、顔の整った青年を、晴人は視認した。
「誰?」
「会社のストーカー君」
あまりに軽い感覚で葉子の口から出た「ストーカー」と言う言葉に、罪の重さが感じられなかった。
ストーカー君である中村君と葉子は同期入社で、研究所が違うが時々呑みに行ったりする仲だった。
ある日彼から「好きだ」と告げられたが、葉子は「友達としてしか見れないから」と断った。
しかし、葉子には彼氏がいない事を中村君は知っていて、諦めずアタックをし続けている。
時々こうやって休みの日に家の前まで来て、葉子が一人で外に出てくるのを待っている。
以前は呼び鈴まで鳴らしてきたが、ここはシェアハウスで自分以外の人間も住んでいるから、こういう事はやめてくれと頼んだのだ。
根は悪い奴ではない中村君。