数ミリでも近くに
胸の鼓動が早鐘を打ち、それが健人に伝わっている様な気がして恥ずかしかった。
「健人に抱きしめられてもドキドキするんだ――」ポロリと葉子は口にした。
「今までは何とも無かったのに、今、ドキドキしてる」
「伝わってる。俺の右側がドクドクいってる」
ぽつりと「どうしよう」葉子は呟いた。
「覆い隠していただけで、本当は健ちゃんの事、好き、だったのかなぁ」
抱きしめる腕を強めた健人は、葉子の長い髪を撫でた。
「俺が告白した時に抱き付いたのとは、違う?」
「全然、違う」
あの時は自分から抱き付き、健人は弟だ、と自分に言い聞かせていたんだろう。それも無意識のうちに。彼にとっては酷い仕打ちだったと、今更ながらに後悔した。
「ごめんね、健ちゃん。私、酷いことしてばっかりだった」
「いいよ。葉子の口から『好き』って言葉が引き出せただけで第一歩だ」
健人は葉子を再び座らせ、葉子は服装を整えた。
「それでも葉子は、兄ちゃんの事も好きなんだろ」
全てを見透かしたような笑みを浮かべ、葉子を見るので、葉子は頷く他なかった。
晴人とは趣味が合う。痴話喧嘩も絶えないけれど、葉子を大事にしてくれているのはよく分かる。
健人はいつでも優しく葉子を見守ってくれている。落っこちそうな葉子を、寸でのところで引き上げてくれるような存在。
刺激的なのは前者であり、安心できるのは後者。葉子にはどちらも選び難かったし、捨てがたかった。
「兄ちゃんには全部話すから。葉子はゆっくり考えてよ」
妙に余裕な態度で組んだ脚を戻して立ち上がろうとする健人に「ちょっと待って」と声を掛けた。
「スミカは?スミカはどうなっちゃうの?」
今朝から一階に下りてくる気配がない。
「スミカは大丈夫だろ。仕事に行けば色んな人に囲まれて、また復活するって」
そう言うと、葉子の顔を手に取り、髪を撫でた。キスをされるのではないかと身構えたが、それはなかった。
健ちゃんは、そう簡単に手出しをするような人間じゃない。葉子はそう言う判断をした。
それでも近づいた顔に、胸の鼓動が届きそうだった。
やっぱり、好きなんだ。
.VS
「兄ちゃん、ちょっといい?」
隣の部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
葉子は、今日の昼間に健人との間で交わされた会話の内容が、晴人に伝わると思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
この日終ぞスミカは部屋を出てこなかった。
「どうした?」
「ちょっと話があって」
ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた晴人は「そこ座って」と椅子を指差した。
眼鏡の位置を戻しながら椅子に腰かけ、早速口を開いた。
「葉子が好きだ。スミカとは別れた」
意味が分からないと言った表情で目を見開く晴人に再び同じ事を繰り返し言った。
「いや、だって俺、葉子と付き合ってるし」
「知ってる。それでも兄ちゃんに負けたくないから、また告白した」
手にしていた雑誌を畳み、晴人はマガジンラックへ放り込んだ。身体を起こす。
「で?葉子は何だって?」
「俺の事も好きなのかも知れないって」
世界の秘密を聞いてしまった様な顔つきで「まじでか」と晴人は言い、「まじで」と健人は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
予想だにしていなかった事態に、晴人は髪をぐちゃぐちゃにしながら「うー」と唸った。
「でも俺の彼女って事には変わりはないんだよね?」
何かに縋りつくような目で、健人を見遣る。
「そうだね。あとは彼女がどう動くか、だね」
酷く落ち着き払っている健人が、恐ろしいぐらいの策士に見えてくる。何故こんな事態になった。俺と葉子は心も体も繋がっているのに?
健人の事は弟としてしか見れないと言っていた筈の葉子が、何故心変わりをしたんだろう。
「俺も負けたくないし、とりあえず頑張ってみるけど、何すればいいのかも分かんないや」
そう言う晴人に対し、フフッと健人は軽く笑って「俺も」と言い、椅子から立ち上がる。
「すべては葉子次第って事で」
そう言うとスリッパの音を立てながら部屋を出て行った。
すぐに晴人はベランダに煙草を持って出ると、ややあって葉子の部屋の掃出し窓が開いた。
「よっ」
「おう、そのカッコじゃ寒くない?」
先日引っ掛けていたカーディガンを羽織っていたが、先日に比べて大分風が冷たい。
「大丈夫。寒くなったら部屋に避難するから」
「そうか」
カーディガンのポケットに手を突っ込んで空を見上げる葉子の横顔を見た。
何の変哲もない、平凡な、葉子。それに惚れた、俺たち兄弟。
彼女の魅力は語りつくせない程沢山ある。俺が見つけた魅力と健人が見つけた魅力、どっちが多いんだろうか。
「健人に聞いた。心が揺れてるらしいね」
顰めつらしい顔で煙草を吸うと、葉子は下を向いて少し笑った。
「その表現が的確だね。揺れてる」
葉子は両の脚に体重を行ったり来たりさせた。揺れている、を表現したかったのだろう。
「でも今は俺の彼女だよね?」
晴人は一番不安だった部分を、包み隠さず彼女に問いただした。また彼女は俯き、笑う。
「そうだね。でも正直な所、やっぱり晴人も健ちゃんも、どっちも好き」
聞いていて苦しくなった晴人は、一つ咳払いをし、煙草に口を付けて思い切り吸い込んだ。
「どっちも好きってのは、小学校を卒業したらもう通用しなくなるんだよ。どちらにも手を付けたら『浮気』になるしね」
顔を上げた葉子は弁明するかのように狼狽した顔つきをした。
「あ、あの、手なんて付けてないよ、健ちゃんに手なんて付けてない」
「手を付ける」という言葉の本質に、鈍い葉子が理解を示していてくれて良かったと思った。まだ健人とはセックスをする程の仲にまで深まっていないという事だ。
思えば生きてきてこれまで、可愛がっていた健人に何かを譲ってあげた事なんて無かったかも知れない。
晴人は、葉子へ好意を持っていたにも関わらず、健人に葉子への告白を勧めた。全てはここから始まっていた。
こんな大事な物を譲ろうなんて、できっこない。してたまるか。
灰皿に煙草を押し付けると何かが焦げるような独特の匂いが鼻を突いた。
晴人は葉子のカーディガンをひっつかみ、自分の方へと抱き寄せた。
「俺の物でいてくれ、葉子」
しかし葉子は所在なさ気な声で、「うん――」と答えるのだった。
その日のセックスでは、彼女は悪態の一つもつかず、静かな物だった。
それを見るにつけ晴人は、元には戻らないのかも知れない、と考えるのだった。
葉子は、隙あらばセックス、という今の付き合い方に、疑問を抱いていた。
確かに愛情表現としてのセックスは、恋仲には必要なのかもしれない。
しかし、晴人が葉子の生理周期まで調べ上げ、コンドームを使わないでセックスをする事はもはや、彼の快楽に付き合っている様な物ではないか。そんな風に思ってしまう。
土曜も日曜も殆ど部屋に籠りっきりで、誰もいない時間を狙って食料を部屋に運び込んでいたスミカは、月曜の朝も起きてこなかった。
しかし、葉子らが出かけた後に起きてきたのだろう。出社した葉子はスミカの姿を見掛けた。