数ミリでも近くに
一方のスミカは、そんな関係であっても健人が自分を見てくれるのならそれでいいと、こんな関係を続けいている。無論、健人が葉子に未練タラタラである事には目を瞑っているのだが。
スミカが健人のベッドに腰掛けると、大抵健人は椅子から腰を上げ、スミカの隣に座るのだが、今日は違った。
スミカは自分を見る健人の顔つきが、日に日に引き攣っていくのを感じ取っていた。
「今日はここ、座らないの?」
スミカは人形のような顔を傾かせてベッドをぽんぽんと叩いた。
「話が、ある」
黒縁眼鏡を一度指で引き上げ、スミカを見遣った健人は、暫し無言になった。
室内は水を打ったような静けさが流れた。
痺れを切らしたスミカは「何?」と沈黙を破ったが、彼女自身、これから健人から語られる話は大筋で理解していた。
「関係を、解消したいんだ」
やっぱり。思っていた通りの展開に、スミカは肩を落とした。「そう」綺麗に手入れされた指先を見つめた。
「ねぇ、あの平凡な葉子の、どこがいいの?どいつもこいつも葉子葉子って、あの子の何が魅力なの?」
気づくとスミカの眉間には大きな皺が寄せられていて、健人は「そこだよ」と言った。
「葉子は誰に対しても、汚い嫉妬なんてしない。していたとしても、それを誰かに言う事はない。スミカの事を一度でも悪く言った事はない。いつも自分に正直で、一生懸命で、平凡な中にも何か光る物が、あるんだ」
それは「嫉妬深い」というスミカの中の闇を指摘する言葉で、それも図星で、スミカは目の前が真っ暗になった。
その闇から這い出るのに必死だった。
「でも、葉子は晴人のものになったでしょ。健人には届かない存在になったでしょ」
フッと鼻で笑うような音がしたのは、健人の物であった。
「兄ちゃんは、自分に正直でありたいって俺に言った。俺は兄ちゃんに負けたくない。俺も自分に正直でありたいんだ」
何度くらいついても、「弟としか」と言われても、それでも自分の心に正直でありたい。葉子に惚れている自分を認めてやりたい。
スミカは顔を上げた。
「手に入ると思ってるの?葉子が自分の手に入ると思ってる?」
中空を見つめた健人は「そうだなぁ」と思案顔だ。
「絶対に手に入らないとは言えない。でも絶対に手に入るともいえない。百パーセントも零パーセントも無いと思ってる」
暖かな水分が双眸から零れ落ちるのを感じたスミカは、ベッドに置いてあったティッシュを一枚取り出した。静かな涙だった。
「恋愛で苦労した事なんてなかったのに。何で葉子なんだろう」
静かに涙を零すスミカは、凄く綺麗だと、健人は思った。
「葉子より綺麗な女なんて五万といる。だけど葉子にしかない物が、多分あるんだ」
最後にティッシュで目蓋をギュっと押え、「分かった」とスミカは立ち上がった。
「お兄さんに負けない様に、頑張ってよ」
スミカは泣き顔に笑顔を重ねたような、妙な顔をして笑った。
そして踵を返して自室へ帰って行った。
.気づく
朝、葉子が「アナーキーインザUK」を止めて自室を出ると、キッチンの前には健人が立ち尽くしていた。
「おはよ、あれ、スミカは?」
健人は首を傾げるばかりで、口を開こうとしないので、葉子は階段を上り、スミカの部屋をノックした。
「スミカ朝だよ、起きて」
声を掛けても返事が無い。何度か繰り返すが、部屋は静まり返っていた。
「スミカ、開けるよ?」
ドアを開けるギギィという音が家に響いた。
「スミカ――」
布団にくるまるスミカがいた。目は開いているが、どこを見ているのか分からない、ふわふわした目つきだった。
「出てって」
一言だけ口にして、頭からすっぽりと布団で覆い隠してしまった。
仕方がないのでドアを閉め、一階へ降りた。
「具合悪いのかなぁ。とりあえずハムエッグ抜きで朝ご飯作ろ」
健ちゃん手伝って、と声を掛けて朝食の準備をした。すぐ後に休日出勤の為にスーツを着た晴人が部屋を出てきた。
「あれ、スミカは?」
「分かんない。何か具合悪いのかも知れない」
小首を傾げながら、パンをトースターに入れ、ダイヤルを回した。
「健ちゃんは今日バイト?」
「いや、午後から大学」
健人はヨーグルトを器に盛り付けながら言い、晴人はコンロでお湯を沸かした。
朝食の準備が遅れた事もあって、晴人は転がるようにして家を出て行った。
スミカは相変らず、部屋に籠ったまま出てこない。
「どうしたんだろ、スミカ」
散らかったキッチンの掃除をしていると、健人が「話、あるから部屋に行っていい?」と葉子に言った。
話ならここですればいいじゃん、という言葉は寸での所で飲み込んだ。きっと、二階で動かずにいるスミカの事なんだろう。
例の如く毛足の長いラグに葉子が座り、健人には椅子を勧めたが、健人は「俺も床の方が良い」と葉子の斜向かいに座り、脚を投げ出した。
「スミカ、どうしちゃったの?」
眉根を寄せて、乗り出すようにして心配をする葉子に、心が痛んだ。
「昨日の夜、二人の関係を解消したんだ」
双眸を目いっぱいに広げて葉子は息を呑んだ。
「それって別れたって事?」
「うん、まぁそういう事」
ラグに投げ出された健人の長い脚は組まれていて、何かの彫刻の様に見えるな、と葉子は別次元で考えていた。その脚を見ながら、葉子は話を続けた。
「それで、落ち込んで、出てこないって事?」
こめかみに指をぐりぐりと押し付けながら「いや、それは分かんないけど」と健人は言うので、葉子は「無責任」と糾弾した。
「俺は自分に正直でありたいって言っただけなんだ」
「抽象的で分かり難いんだよ、健ちゃん」
葉子は健人の長い脚をべしっと叩いた。健人は黒縁眼鏡の位置を指で直し、一度深呼吸をして口を開いた。
「やっぱり葉子が好きなんだ。しつこいと思われても、やっぱり自分の物にしたい」
口を噤んだ葉子は、次に何を話したらいいのか分からず、健人の長い脚を単調に、ぺしっと叩き続けた。
「パンクロックが葉子の中で大事な要素だって事は分かった。だけど俺がパンク好きだったら?っていう質問に、葉子は答えなかった。俺みたいな平凡な奴が、葉子をレイプから救ってたら、葉子は平凡な奴としか付き合わなかったのか?たまたまパンクな人だっただけだろ?」
言われてみればそうだ。たまたまパンクな人だっただけだ。買い物帰りのオバサンだったかもしれないし、ヤクザのお兄さんだったかも知れない。
今まで自分では気づかないうちに「自分の好みはパンクロックな人」というレッテルの様な物を自ら築き上げ、自分の殻に閉じこもり、狭い世界で「自分の好みの人は皆、彼女がいる」なんて負け惜しみを言って人を遠ざけていたんだという事に、何となく気づかされた気が、葉子にはしていた。
彼氏いない歴二十五年?それは出会いや楽しみを自ら遠ざけてきた結果だろう。因果応報というやつに他ならない。葉子はそれを今更ながらに知った。
単調に叩いていた彼の脚が突然折れて、健人は葉子を抱きしめた。
「好きなんだ。兄ちゃんに負けたくないんだ。俺は姉ちゃんとしてじゃない、女として葉子が好きなんだ」