数ミリでも近くに
だが、声を掛けようとすると顔を背けられ、これが健人との件と無関係ではない事は容易に想像がついた。
週中になってやっとスミカが、いつも通りの朝を迎えていた。
「おはよ、スミカ」
あくび交じりにスミカに言葉を掛けると、スミカは笑顔で「おはよ」と返してきた。
いつもの、ハムエッグがそこにはあった。安心。
対面の席についたスミカが、口を開くと同時に、二階から健人が降りてきて、スミカの姿を見て驚いたような表情をした。
「あのね、武とよりを戻したの」
「へ?」
「そういう事」
変わり身の早さに唖然とした。ついこの前別れたばかりじゃないか。
スミカもスミカだけど、武君も武君だ。
それを階段の上で聞いていた健人は「良かったじゃん」と言いながら階段を降りて来た。
スミカはいつものお人形のようの笑顔で「うん」と健人に笑いかけた。
あぁ、スミカが、戻ってきた。
.アナログ盤
本格的に寒さが厳しくなってきた。
住宅街にはクリスマスのイルミネーションを付けた家が点在し、年の瀬を嫌がおうにも感じさせる。
「去年は健ちゃんと私しかいなかったから、クリスマスパーティしなかったんだけど、今年はプラス晴人かな」
葉子は指折り数えて見せた。
「スミカは彼がいるんだもんね」
ソファに身を委ねて、晴人が応えた。
「この三人でクリスマスパーティするってのも何か、微妙な感じだね」
クスっと葉子は笑ってクッションに顔を押し付けた。
クリスマスを来週に控え、何をするか決めかねていた。
「とりあえず宅配のオードブルと、駅前のケーキ屋さんのケーキでしょ」
「酒と、健人用のソフトドリンク」
「あ、チキンだ、あれがないとクリスマスは始まらないよ!」
葉子は手元にあるメモ帳に書き出した。リストが段々と長くなる。
「そのクラッカーっての、いらなくないか?俺ら、大人だし」
「まじでか」
「クラッカー」を二重線で消す。
「プレゼントは?みんなで交換?」
ウキウキして顔を覗き込む葉子のおでこをペチンと晴人が叩いた。
「そういうのは恋人同士で交換するの」
「あぁそうかぁ」とヘロヘロの声で答える葉子に「健人には、何かあげるの?」と訊いた。
「分かんない。考えてない」
急速に笑顔を萎ませる葉子を見るのが辛くて、何とか笑顔を取り戻させようとした。
「俺と健人にはプレゼント無し!こういうのは女の子の特権!だから葉子、俺にプレゼント買わないって約束ね」
晴人は小指を立ててずいと目の前に寄こしたので、葉子は笑って小指を絡ませた。
「絶対買わないで」
「死んでも買ってやるもんか」
クリスマスイブは晴人がケーキを買ってくる係りになった。
「中まで苺がびっしり入ってるやつじゃないとダメだからね」という葉子の要望に沿うショートケーキを調達した。
チキンは健人が、三人で食べられそうな分量を買ってくるという事になった。
葉子はいち早く家に帰って、宅配待ちだ。
宅配が来て、リビングのテーブルに配膳していると、健人と晴人が同時に帰ってきた。
「すぐそこでばったり会ってさ」
晴人は持っていたケーキを冷蔵庫に仕舞おうとして「葉子、いれる場所が無い」と困っていたので葉子は「野菜室に入れておきなさい」と指示した。
健人が持っていたチキンは、まだそれなりに温かかったので、そのままお皿だけを替えてテーブルに出した。
各々がお酒(健人はジュース)を持ち、乾杯をした。
「飾りも何にもないクリスマス会って、何かお食事会みたいですな」
チキンをもぐもぐ言わせながら葉子が言うと、確かに、と二人が頷く。
「葉子がサンタのコスプレでもすりゃよかったんじゃない?ハンズに売ってるじゃん、ミニスカのやつ」
隣に座る晴人の脚を思いっきり踏んづけると、「ごめんなさい!」と反射的に晴人の声が出た。
「まぁ、普段食べないような物食べて、いいんじゃない、これで」
至極大人な意見を述べる健人に、残る二人は平伏すばかりだった。
その後ケーキを切り、苺の位置がずれているだの、ケーキの大きさが違うだのと痴話喧嘩を繰り広げたのは勿論、葉子と晴人で、健人はただただ出されたものを平らげるという感じだった。
葉子はもう少し健人とも話したいと思ったが、彼は遠慮しているのか、あまり口を開かなかった。
全ての片づけを終えて、今年のクリスマスパーティは終了した。
「葉子?」
ベランダから声がした。さすがにこの季節はカーディガンじゃ寒いのでコートを引っ掛けようとすると「部屋に来て」と言われたので、ドアから晴人の部屋に入った。
「さぁさどうぞどうぞ」ベッドに腰掛けるように言われ、煎餅みたいになった布団に腰掛けた。パイプベッドのパイプが恐ろしく硬く、冷たい。
「これが俺からのクリスマスプレゼント」
渡された四角く平らな袋を開けると、一枚のアナログ盤が出てきた。
「ピストルズ?!」
素っ頓狂な声をあげた葉子を見て、晴人はご満悦と言った表情だった。
「復刻版だけどね。部屋に飾るにはちょうどいいかなって思って」
葉子は表も裏も、穴が開くほど見ている。
「これ、どっち向きに飾るか迷うー。毎日ひっくり返そうかな。罪作りなアナログ盤めぇ!」
以前ライブチケットを譲った時の、あの笑顔だった。晴人が心動かされた、幼子の様な笑顔。
晴人は部屋の電気をいきなり消し、葉子に飛びついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「待てないよ、今日はナマで出来る日なんだし」
その言葉に葉子の何かが反応し、自分より大きい晴人をぐいと押しのけた。
「セックスセックスって、晴人はそればっかり。愛情表現だって言ったって、顔を合わせる度にそんなんじゃ、嫌だよ」
葉子は渾身の力を込めて言葉を吐きだした。晴人もそれに応酬する。
「付き合ってる二人がセックスするのは普通だろ?今頃スミカもしてるよ。誰だってそうだよ。好きだからするんだよ。好きだけどしないなんて、蛇の生殺しもいい所だよ」
葉子は拳を握ったまま暫く黙ってその場に立っていた。
「ごめん」
蚊の鳴く様な声で呟いた葉子の声は、晴人には伝わらなかった。「へ?」
「ごめん、晴人のペースには付いていけない。恋愛経験が少ない私には、無理」
そう言うと、アナログ盤を床に置いたまま、部屋を出て行った。
晴人の部屋のドアが閉まる音しかしなかったところを見ると、そのまま健人の部屋に向かったんだろうと思った。
晴人はベッドに横になった。暗闇の中、何かが崩れていく音がした。
健人と――健人と葉子なら、ペースが合うのかもな。自虐的だと思いながらもそう思わずにいられなかった。
そのうち二階からドアの閉まる音が聞こえてきた。
晴人は置いてけぼりになったアナログ盤を、ベッドの宮に立て掛けた。
あの笑顔は、もう、俺の元には戻ってこないかも知れない。
.二人の距離
「健ちゃん、入っていい?」
ドアの向こうから、来ないだろうと思っていた人物の声がしたので、慌ててドアまで走った。
「葉子、どうしたの?」
葉子の顔は、泣き出す一歩寸前まで歪んでいる。それをどうにか堪えている様で、見ていられない。
「とりあえず、中入りなよ」