数ミリでも近くに
座っている葉子と立っている健人とでは高さが違いすぎて、見上げると言うよりは、首を傾けるような形になった。
「兄ちゃんと、付き合ってんだって?」
消え入るような声で健人がそう言うので、葉子はばつが悪そうに頷いた。
「座んなよ」と葉子は促した。
「俺がダメで、兄ちゃんならいいって事?」
そんな風に言われるのではないかと危惧していた。現実になった。
「前にも言った通りだよ。健ちゃんの事は弟として好き。これは変わらない。ずっとね」
雑誌をパタンと閉じると、ラグの長い毛足が吹かれて倒れた。
「兄ちゃんの事は?」
「趣味が合うってとこだけなんだよ、違いなんて。でもその差が大きいんだ、私には」
よく分からないといった顔で頭を傾げる健人を見て、葉子はゆっくりと話した。
「晴人にも話したけど、私ね、レイプされそうになった所をパンクなお兄さんに助けてもらったの」
晴人と全く同じ反応をしているのを見て、やっぱり兄弟だな、と葉子は破顔してしまった。
「それ以来、好きになるのはみんなパンク好きな人ばっかり。単純な話でしょ?」
「じゃぁ俺がもし、パンク好きだったら?」
うーん、と葉子は声を詰まらせた。
「難しい話だなぁ。難しいから却下」
もしも、の話なんてしたって仕方がない事ぐらい、健人には分かっている。
しかし「もしも」でもいい、男として好きになって欲しい、そう願ってやまないのだ。
「本当に単純なの。健ちゃんと晴人を比較して、どっちの方が性格がいいか、優しいか、そんな風に比べてないの。言っちゃえば、健ちゃんの方が晴人より優しいしね」
優しさと言う名の凶器を振り回すこの女性に、本当の優しさなんて分かってるんだろうか、はなはだ疑問だと、健人は口にこそしないが感じていた。
「何でも兄ちゃんに持って行かれるんだなー」
「スミカがいるじゃん」
健人の肩をぐいと押すと力なく後に反れた。
「スミカより、葉子が良かったんだ」
真直ぐに葉子の双眸を見据えて言う。
「それ、スミカの前で絶対言わないでよ」
珍しく厳しい顔でキッと睨み、健人を諭した。
付き合っている女性がいながら、こういう事が言えるのは、恋愛経験が豊富な人の特権か。葉子は健人を外に追い出した。
.初秋の初夜
「スーミーカーちゃん」
隣の友達を呼ぶ小学生のような声だ、葉子は自分でそう思った。
夕食の後、スミカの部屋を訪れた。
水色のドアをノックすると「どうぞ」と中から声がしたので、ノブを回して中へ入った。
以前とは違う香水の匂いがした。
この人は男が変わる度に香水の匂いが変わる。この匂いは対健人用か。
「何かあった?」
いつものようにカーペットに脚を投げ出して座り、スミカはベッドに腰掛け華奢な脚を伸ばした。
「あのさぁ、セックスってどう?」
いきなりの質問にブワッと笑ってしまったスミカだが、葉子があまりにも真面目な顔をしていたので、咳払いを一つした。
「どうって言われても――何、晴人とするの?」
ストレートな物言いはお互い様で、葉子はさっと頬を赤らめた。
「するかどうかは分からないけど、どうしたらいいのかなーって。何か、特別に私がしなきゃいけない事ってあるの?」
顎をこぶしに乗せて「うーん」と唸ったスミカが「何もない」と答えた。
「あんなの、男に任せておけばいい。痛いなら痛い、気持ちがいいなら気持ちがいい、素直にやっときゃどうにでもなるって」
ほほー、と頷く葉子が生真面目で可笑しい。
「健ちゃんとスミカもそうやってやってるんだね」
「何か生々しいからそういう事言わないでくれる?」
嫌悪感丸出しの顔でそう言われ「すみません」と葉子は謝った。
スミカは窓が開いていない事を再度確認した。こんな話、健人には聞かれたくなかった。
「お邪魔しました。今日のハンバーグ、美味しかったよ」
そう言い残して、葉子はスミカの部屋を後にした。
葉子はとうとう、操を捨てるんだな。スミカはチョットだけ親のような気持ちになった。
窓を閉めている葉子の部屋には、煙草の煙は届かない。
もう秋だ。冷えはじめた秋の夜でも、晴人は外で煙草を吸う。少しだけ可哀想に思う。
ベランダを見遣ると、いつもの様に蛍みたいな煙草の光りが、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
葉子はパジャマの上にカーディガンを引っ掛けてベランダに出た。
「おっす」
「おう、寒くない?」
カーディガンを握って見せた。大丈夫、と。
「冬になってもこうやってベランダで、煙草吸うの?」
冷たい風に顔を顰めながら晴人は「そうだね」と言う。
「煙草は値上がりするし、喫煙所は減る一方だし、喫煙者には厳しい世の中だよ」
悲観するような顔付きで灰皿に灰を落とすので「やめたらいいじゃん」と言うと、「そんなに簡単にやめられないの」と返ってくる。
「ねぇ、寒いでしょ。温めてあげるって言ったら、どうする?」
「は?」
「セックス、してもいいよ」
葉子の顔をまじまじと見ながら、手元を見ずして灰皿に煙草を押し付けると、夜風に灰が少し舞い上がった。
「行くぞ」葉子の腕を掴み、ベランダから晴人の部屋に入り、葉子はベッドに押し倒された。頭上に置かれた灰皿からは、煙草の匂いがした。
スミカに言われた通り、彼に全てを委ねた。
ベッドの横に貼ってあるシドヴィシャスに、行為を見られている様で、恥ずかしかった。
思っていたよりも単純で、簡単なものなんだと知った。
これを好きこのんでやる世の中の恋人たちの気がしれない、そう葉子は思った。
「こんなもんで繋がりあってる人間は、猿か犬だ」
ベッドの上でパジャマを着ながらそう呟くと、それを耳にした晴人は「またぁ?」とだるそうに項垂れた。
「仕方ないじゃん、人間てそう言う風に出来てんの。男が凸なら女は凹でさ。組み合わさる様になってるの」
「だからそれが猿や犬だって言ってんの」
晴人は頭をゴシゴシと掻いた。葉子の頭の中では、セックスとは繁殖行為に過ぎないらしい。
「俺たちは、猿や犬とは違う。子孫を残すためにこんな事をする訳じゃないんだよ。犬も猿も、快楽の為に交尾してるわけじゃないでしょ?繁殖行為でしょ?」
我ながら良い事を言ったと思ったが、葉子には響かなかった。
「じゃぁ晴人は、快楽の為にセックスしてる訳か」
「はぁ?!」
もう何も言うまいと思い、黙った。この話題をストップさせた。
丁度パジャマを着終わった葉子に、落ちていたカーディガンを優しく掛けてやった。
「変態、触らないで」
一喝された。もう何もするまい。
.一つ星
「健人、入るよ」
スミカの囁き声が、ドアの向こうから聞こえてきた。
健人はキーボードに置いていた手を離し、椅子をぐるりと反転させた。
「どうぞ」
数日に一度、こうしてスミカは健人の部屋へやってくる。
休日にデートをした事もあったはが、あまり盛り上がる物ではなかった。
専ら、こうしてお互いの部屋を行き来し、他愛もない話をし、セックスをして部屋に戻るか、話だけで終わるか、そんな関係だから、健人はスミカと付き合っているという実感は沸いていなかった。