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数ミリでも近くに

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 天井をじっとみつめたまま、葉子は動かない。「笑わない?」
「私ね、中学に入ってすぐの頃、レイプされそうになったの」
 今度は晴人が豆鉄砲を食らう番だった。
「未遂だけどね。未遂で済んだのは、近くを通りかかったお兄さんのお陰で」
 軽はずみに訊いた質問が、こんなにダークな昔話になるとは、思いもしなかった晴人は、「話したくなかったら話さなくてもいいぞ」と言った。
「大丈夫。ここからが本題。その通りかかったお兄さんが、パンクなお兄さんだったの」
 あぁ、と合点がいった。助けてくれたのがパンクスだった、と。
「お兄さんと警察署に行って、その時お兄さんの胸についてた缶バッヂに『セックスピストルズ』なんて印象的な言葉が書いてあったから、ネットで調べたらバンド名だって知ってさ」
 それから芋づる式に関連する音楽を貪るように聴いた。
 同級生にはそういった音楽に精通する人間がおらず、不遇の中学時代を経て、高校生になり、高校時代はパンクスはいても、大抵パンクスな彼女がついていた、と葉子はジェスチャーを交えて説明した。
「だからね、趣味が合う男の人がいると、すぐ好きになっちゃうんだ」
「じゃぁ俺以外に趣味の合う男ができたら、どうする?」
 葉子は暫く沈黙をし、出した答えが「わかんない」だった。
「わかんない、じゃないでしょそこは。そこは『晴人以外にはいかない』とかいう所でしょうが」
 今まで恋愛をしてきていない葉子には、ノウハウがない。雰囲気を読むだとか、空気を読むだとか、そういう小難しい事が出来ないのだ。
「俺じゃないパンクなお兄さんに、ふらふらついてっちゃ、だめだぞ」
「うん」
 ベッドに入って初めて晴人の方を向いた葉子の顔を、彼は両手で押さえて、キスをした。今度は長く長く、息が詰まるほどのキスをした。
 そのままバスローブに手を掛けた。
「ちょーと待った!!」
「なんだよそこでストップかけんのおかしいだろ。逆転裁判かよ」
 痴話喧嘩のスタイルが再発。
「初めてだから」
「そらみんな初めての時ってのはあるだろ」
「そう簡単にさせない」
「なんだよそれ」
 ベッドの端の端の端の方へ葉子は身体を寄せ、布団を被った。
 晴人は自分の爆発しそうな息子さんに向かって「今日は無しだって」と囁いた。

 そのまま朝を迎えた。
 先に目が覚めた晴人は、横にいる葉子の寝顔を見ようと視線を向けると、あらぬ姿で彼女が寝ている事に気づき、思わず布団を掛けてやった。
 殆ど見えてるじゃないか――。
 掛けた布団が邪魔だったのか、いくらか瞬きをしながら葉子が目を開けた。
「朝だよ」
「朝?それおいしいの?」
「朝にセックスすると気持ちがいいんだよ」
 先程の彼女のみだらな姿が忘れられず、葉子に手を伸ばすと、バシっと叩き落された。
「あのねぇ、好きだけど身体はまだ渡さない」
「何だよ、言葉だけかよ」
「言葉だけじゃご不満?」
「あぁ不満だね」
「下半身でしか恋愛できない人間は猿か犬だ」
 葉子はそっぽを向いて、黙ったままはだけたバスローブを布団の中で直した。
 晴人は猿扱いされても仕方がないような状況だった(それは朝だから、というもっともらしい理由があるのだが)ので何も言えなかった。
 沈黙を破ったのは葉子だった。
「折角気持ちが通じ合えたと思ったのにな」
 初めて相手と心が通じあえた。
 良く考えてみればそうだ、晴人自身だって中学の頃、好きだった女の子に告白して受け入れられ、暫くはそれだけでお腹いっぱいではなかったか。
 ただそばにいる、それだけで、と何かの歌詞みたいだと、思いはしなかったか?
 彼女は今、そういう状況なのだ。それを無理やり「セックスしよう」と仕向けるのは酷い話だ。
「じゃぁさ、葉子が『今日なら』って日でいい。俺が煙草吸ってる時にでも、誘ってくれない?絶対乱暴にはしないから」
「今日なら、って日がなかなか来ないかもよ?」
「待ってるから」
「永遠に来ないかもよ?」
「さすがに待てない」



.事実


 茶色く重い玄関の扉を開けると、キッチンに立つスミカが目に入った。
「ただいまー」
「ただいまでーす」
 スミカはにっこり笑って「朝帰り?」と現実を突きつけた。
「メールした通り、終電を逃しちゃってそれで――ホテルに――」
「ホテル?!」
 スミカが素っ頓狂な声を上げた。
「いや、ビジネスの方ね。泊まってきたって訳で。健ちゃんは?」
 二階の健人の部屋を見遣る。
「さっき朝ご飯食べて、また部屋に戻ったよ。午後からバイトだって」
「あ、そう。では私はこれで」
 葉子はその場をそそくさと離れ、自分の部屋へと戻った。
 スミカの怪訝な顔を見て、晴人が「なんつーか、付き合う事になったっぽい」と打ち明けた。
「え、そうなの?じゃぁ健ちゃんもこれで葉子の事をきっぱり諦めてくれるだろうなー」
 鼻歌交じりに食洗機の中を掃除していた。おめでたい人だ。
 人の心なんてそう易々と変わる物じゃない。
 晴人と葉子が付き合い始めたって、きっと健人は葉子に気持ちが残ったままだろう。
 だが、可愛い弟だからとて、ここは譲れない。葉子は俺の物だ。
 涙をぽろぽろ流しながら想いを告げてくれた彼女の姿は、俺だけの物だ。

「あ、兄ちゃんお帰り」
 二階から健人がスタスタと降りて来た。
「スミカ、何か食い物ある?」
「クッキーならあるよ」
 クッキーの袋と皿を手にし、ソファに座った。
 晴人は自室に荷物を置いてから、リビングに引き返した。昨晩の事を掻い摘んで健人に説明しようと思ったからだ。
 健人はお皿にクッキーをざっと出し、その茶褐色の丸や四角を次々に口へ放り込んでいる。
「健人は昔っからこういう、水が飲みたくなるような食感のお菓子が好きだよな」
 口をもぐもぐさせながら「そだね」と頷く。
 暫くその様を見ていると「何か言いたげな顔だね、兄ちゃん」と指摘され、「さすが我が弟よ」と晴人は応戦した。
「俺と葉子な、付き合う事になった」
 クッキーに伸びた手が、一瞬止まった。が、また動きだし、「そうなんだ」と健人が吐き出した。動揺はひとつも隠し切れていない。
「お前に葉子の事けしかけといて悪いとは思ったけど、自分の気持ちに正直でいたいからな」
「ふーん、正義漢」興味なさ気にクッキーを口に入れているが、本当は気になって仕方がないという事が、兄の晴人には見透かされている。
「で、セックスの一回や二回、してきたの?」
 キッチンから「健人!」と窘めるスミカの声がした。
「してないよ。キスはした」
 また手元が、一瞬止まる。やはり、葉子の事をまだ気にしているのだと言う事が、ありありと解る。
 自分が葉子の一番初めの男でありたかったという健人の思いは、兄の所為で脆くも崩れ去った。
 まだお皿に残るクッキーを再び袋に戻し、スミカの所へ「ごちそうさま」と持って行くと、その足で健人は葉子の部屋のドアをノックした。もう晴人からこんな話を聴くのは沢山だった。
 その様子をやれやれという顔で、晴人は眺めていた。
 スミカは明らかに不満そうに長いため息を吐いた。


「どうぞー」
 健人は無言で部屋へ入った。葉子はラグに座って音楽雑誌を捲っていた。
「どうしたの?」
作品名:数ミリでも近くに 作家名:はち