数ミリでも近くに
「いつもさぁ、ライブ中に携帯落としそうで怖いんだよね」
「俺、ロッカーに入れちゃうけど、いつも」
え、そうなの!と素っ頓狂な声を出した葉子に晴人は言った。
「ウォレットチェーン外れた事無いし、はぐれる事はないでしょ。葉子もロッカーに入れちゃえば?」
「そうだねぇ、そうしようかな」
貸しロッカーに、二台の携帯電話が並んだ。
いつも通り、二人の間はウォレットチェーンで結ばれた。
葉子はやっぱりどこか恥ずかしく、毎回顔を赤らめてしまう。その顔にも晴人は慣れてしまう程、二人はライブを共にしていた。
ライブが終わり、ふと横を見ると、ある筈のウォレットチェーンが無い事に葉子は気づいた。Tシャツを捲ってベルトループを見ると、千切れた跡があった。
焦って見回しても、まだ人ごみの中で、男の人が多い事も手伝ってなかなか晴人の姿を見つけられずにいた。
そのうち会場内から人が掃けていったので、今度こそ見つかるだろうとその場を動かずにいたが、スタッフの男性が「閉めますので、ロビーに出てください」と退場勧告に来た。
晴人が、いない。携帯もない。葉子が携帯を持っていたところで、晴人は携帯を持ち歩いていない。
ロビーは会場から締め出された人間で溢れかえっていた。
煙草の煙が立ち込め、あちこちで酒を呑む人が座り込んでいる。トイレは行列が外まで続き、とにかく人が多い。
どうしよう、どうしよう、見つからない。
ロビーの中をあちこちうろうろしていると、ロビーもだんだんと、人が掃けていった。
人の波が去った向こうに、ウォレットチェーンの端っこを手に持った晴人が立っていた。
「晴人!」
葉子は晴人の元へ走り寄り、抱き付きこそしないものの、飛びつきそうな、そんな勢いだった。葉子の目が、潤んでいたのを晴人は双眸で見つめていた。
「見つからなかったらどうしようかと思ったよ」
声は殆ど、涙声だった。もう少しで目から雫が零れ落ちそうな位、涙ぐんでいる。
反射的に晴人は自分の胸元に彼女を抱き寄せた。
「葉子がいなくなったらどうしようかと思った。見つけられなくてごめん」
そのまま頭を撫でた。葉子は彼の胸にうずくまる様にこすりついたが、そのまま彼を見上げたと思ったら、ドンっと身体を突き放した。
「ちょ、何で抱き付くかぁ!」
「そういう雰囲気だったでしょーが!」
全くもう、とお互いぶつくさ言いながら、晴人が持っていたロッカーのカギを開け、携帯で時刻を見た。
二人は目を合わせた。
「まずくない?」
「まずいでしょ」
完全に終電がいってしまっている時間だった。
否、終電があったとしても、途中駅までだ。横浜方面へ向かう電車はない。
「夜行バス?」
「あるわきゃないだろ」
ライブハウスから出て、とりあえず駅に向かった。その間に帰宅策を練ったが、「大枚はたいてタクシー」しか意見は出なかった。
「葉子が嫌じゃなければ、だけど――」
ん?と葉子は晴人の横顔を見た。
「あの辺のビジネスホテルだったら安く泊まれるかなって」
駅の周りにあるビジネスホテルを指差して言った。
「しょーがないでしょーが、ツインの方がいいって葉子が言ったんだから!」
葉子はツインの意味を理解しておらず、ベッドが二つあるのがツインだと思っていた。
が、実際ベッドが二つあるのは「ダブル」の部屋で、葉子はダブルベッドが一つの「ツイン」を選択した。
「だったら私、床で寝るからねー」
「勝手にすればー」
カードキーで部屋に入ると、部屋にはダブルベッド、机と椅子、クローゼットしかなかった。
「ソファぐらいあるかと思ったのに」
葉子の希望は失われた。
「とりあえず汗臭いから、俺シャワー浴びるわ」
「は、そういうのって女が先でしょうが、レディファースト!」
「どこにレディーがいるんだよ」
晴人はスタスタと洗面所へ向かい、バタンと扉を閉めた。
いなくなったらどうしようと不安になるぐらい、好きなのに、どうしてこうやって言い争いになってしまうんだろう。
くだらない痴話喧嘩ばかりして、全然前に進めない。私が意地を張っているから?
何故か健人が自分に告白をしてきた事を思い出した。
彼はシェアハウスの住人で、これからも一緒に生活をしていくのにも関わらず、自分に告白をしてきた。そして葉子はそれを断った。
伝えればいいんじゃないか?思いを。ダメならそれでいいじゃないか。
普通のお隣さんとして接していけばいい、それだけ。
意地を張っているだけでは、前に進めない。そう健人が教えてくれた気がした。
「おい、シャワー空いたぞ」
洗面所から出てきた晴人は頭にタオルを被ってトランクス姿だった。
「ズボンぐらい穿いて出てきてよ!」
「仕方ないだろ、バスローブしかないんだから」
ほらね、また痴話喧嘩。
「バスローブでも、着ててよね。下着姿なんて見たくない」
「そーですかー、すみませんねー」
.おあずけ
仕方なく、だ。そりゃそうだ、着替えが無いんだから。
仕方が無く心許ないバスローブに身を包み、洗面所で髪を乾かして部屋に戻った。
晴人は、見てはいけない物を目の前にしたように、目線を明後日の方向へ向けた。
好きな女のバスローブ姿?正気の沙汰じゃない。
「本当に床で寝るのか?」
「ん、寝る」
「じゃ、俺が床で寝る」
「私が床で寝るの!」
「勝手にしろ」
「はいはいそーしますー」
下らない痴話喧嘩だ。いつもの二人のパターンだ。ライブに来ても、ベランダで駄弁っていても、朝ご飯を食べていても、この調子だ。
なのに何故か、葉子の目からは大粒の涙が溢れ出てきた。
「おい、そんなに床で寝たいのか」
葉子は頭を振った。そんな事じゃない。もっと、大切な事。嗚咽を殺して、何とか言葉を紡ごうとする。
「こんな風に、言い合いをしたくないの」
話しながらも壊れた水道みたいに涙が止まる事が無い。
「本当は、本当は、晴人の事が好きなのに、そうじゃないみたいにしちゃうの、私」
晴人は葉子の顔をじっと見つめた。バスローブの端で一生懸命涙を止めようとしている。
言うなら俺が先に言いたかった。先手を取られた事が悔しかった。
今度は突き放されないように、座る葉子ににじり寄って抱きしめた。
「俺もだ。俺も葉子が好きなのに、好きじゃないみたいになっちゃうんだ」
葉子は一層嗚咽を強めた。今度は混乱から来る涙ではなく、うれし涙であってほしいと、晴人は思った。
真っ赤にした目を晴人に向けて「本当に?」と顔を傾げた。声が掠れていた。
「本当だよ」晴人は彼女の揺れる二つの瞳をじっと捕らえた。
その瞳が俄かに細くなり、「良かった」と囁くように葉子は声を出した。
上を向いた唇に向けて、晴人はキスを落とした。きっと、彼女にとって、初めてのキスだろうと思った。
葉子は豆砲玉でも食らったような顔をしたので、晴人は破顔してしまった。
協議の結果、二人ともベッドで寝る事になった。
「触んないでよ」
そう、釘を刺された。
晴人はずっと疑問に思っていた事を口にした。
「なぁ、ピアノずっとやってきたのに、何でパンクにのめり込んだの?」