飛騨の狐
「これは恐縮です。弥助さんとは昵懇の仲ですからご安心くださいね」
三人は膝を交えて密談するように小声で話している。頼母の顔は引きつっているように見えるが、お富はにこやかである。弥助は使命感を漂わせているような雰囲気だった。そして、お富に尋ねる。
「ほかの狐の動静は知らぬか」
「離れ狐のわたしだもの、存じませんよ」
「角左衛門屋敷には、そなた以外の狐も逗留していたのではないのか」
弥助はにじり寄るようにして尋ねる。弥助はお富が清兵衛宿の女中であった頃からお富と深い関係になっていた。
「庄屋の角左衛門だと、彼は江戸家老・三浦多門の縁戚で若侍ながら重用されて居ったが、あるとき藩侯に意見を具申し逆鱗を買い士分を剥奪されたと聞いておる。それ以来頼(よりとき)
候を怨んで居るとの噂があるが、真偽のほどは解らぬ。弥助殿は、角左衛門といかにして知り合われたか」
頼母が膝を進めるようにして聞く。傍にいるお富が固唾を呑んで二人のやり取り見守っている。
「清兵衛から角左衛門はわれ等の味方であると聞いておった。狐が清兵衛の逃亡を助けたのは頼母殿もご存知であろう」
「狐が幕府の隠密だと知って居るのは弥助殿だけであろうか」
「そのことならば、頼母殿こそ存知居られるはず。そうでなければ、藩侯からの探索の手が逆に貴殿に及ぶことになろう」
「一揆を起こさせ、首謀者を捕縛するのが拙者の務めだが拙者の存念では、角左衛門をそれに当てるつもりで居る。さすれば、江戸家老・三浦多門をも一挙に落とすことが出来るであろう」
「角左衛門は狐の庇護者じゃ、幕府隠密方が異を唱えようぞ」
「そこを弥助殿に抑えてもらいたい」
「狐も角左衛門に対する恩義から反対しよう。お富、お前の意見を聞きたい」
弥助はただならぬ面持ちでお富を見詰めた。
「かように重要なことを口にされた頼母殿の真意がわかりませぬ。角左衛門が一揆の首謀者だという確証を示す手立てはおありなんでしょうか」
お富はいつに無く改まった口調であった。角左衛門と自分たちの生死にかかわる大事を耳にしたのである。お富の心に動揺が起きていた。
「お富の言う通りじゃ。確証を示さねば、老中・但馬守は許諾なさるまい」
「角左衛門は当藩内の庄屋なれば公儀の許諾は不要、幕府の隠密・狐を匿い居ることを知られたくないのが幕府の立場であろう。さすれば、角左衛門を捕縛することは公儀にとっても、好都合では無からぬか」
頼母はしたたかな計算をしている。
「おぬしは強かな悪党よのう」
「弥助殿の言葉とも思えぬ。拙者が悪党なれば、外様大名の改易を図る公儀はその頭目ではござらぬか」
「お二人とも仲違いなさってはいけませんよ。頼母さまの存念、確かに承りました」
お富は平静さを取り戻している。頼母の計略がただならぬものであることを知って内心には意を決するところがあるような様子が顔に浮かんでいた。
「頼母殿の意向は老中・但馬守殿に取り次ごう。お指図があるまで角左衛門捕縛は罷りならぬものと心得られたい」
弥助は自分の立場を取り戻し、厳しい態度で頼母に告げた。頼母はそれに対しては黙したままである。お富はじっとその様子を見守っていたが、不気味なものを感じた。頼母の必死の抵抗とも見える態度には何が隠されているのか。もしやして、頼母は、角左衛門と狐は江戸家老・三浦多門と気脈を通じる藩侯の隠密であると疑っているのではないかと、お富は内心穏やかでない。あるいはそれは思い過ごしで、頼母の多門に対する敵対心が縁戚の角左衛門にまで及んでいるのか、改易を成就するためには単なる農民一揆ではなくて庄屋が黒幕であるとしたほうが決定打になると思ってのことかなどと、お富は思い直している。
この一刻後、弥助とお富は頼母屋敷を辞したが、その背後から頼母の手の者が二人を付けている気配を感じて、別々の道を取った。頼母の疑心はこのことで判然としたのであるが、頼母がどのような行動に出るかは二人にも見当は付いていない。
(5)
弥助とお富が落ち合ったのは山中の例の小屋である。このとき他の狐はいなかったので、弥助は大胆にお富に迫っている。お富もそれを受けて弥助のなすままにしているが、勤めは忘れていない。弥助の心を奪い取って狐を守る役に仕立てようとしている。
頼母の計略を未然に防がねば角左衛門と狐が滅ぼされるだけではなくて、江戸家老・三浦多門と藩侯の身も危うくなる。ここは、わたしが必死の働きをして頼母を幕府の手で始末させねばならぬ。それには一揆の張本人は頼母であることを明かす役を弥助にやってもらわねばならないとお富は考えていた。
弥助との濡れ場の後のひと休止で芋粥をすすりながら、お富は自分の考えを弥助にズバ リと言う。
「幕府が頼母殿を謀反人として処断してくれないかね。一揆が起こってからでは遅い、一揆を未然に防ぐための処置として頼母殿を直ぐにでも捕縛してくれないかえ」
「それでは幕府が頼母を裏切ったことになろう」
「そうでしょうか、頼母殿が弥助さんとわたしのあとをつけさせたのは明らかに幕府隠密を疑ってる証拠でしょう。幕府を裏切るのは頼母殿だと思いますね」
「どう裏切るというのだ」
「領民の負担を軽減し、門徒衆を味方につける藩政改革を藩侯に進言し、それが容れられねば、幕府の改易の企みを洩らし、老中・但馬守の意向を受けた形で藩侯に進退をせまるでしょうよ」
「藩政改革の主導権をとって幕府の意図を葬るか、藩侯を改易で脅迫するか、幕府と藩侯を天秤にかけるというのだな」
「頼母殿は保身のためにはどんなことでもやるお方と見たね。角左衛門殿に危害が及ぶ前に除いてしまいたい。弥助さんにそれを頼みたいのだがやってくれるかね」
お富は濁り酒を弥助の椀に注ぎながら詰め寄っている、肴は猪の肉の燻製である。
「お富がそこまで言うならば、俺はやらねばなるまい。頼母は幕府の秘密を知っておるから何れは始末せねばならぬ者よ。生かしておけば但馬守のためにもよくは無い。陪臣は哀れなものよな、主君を欺き、公儀に見捨てられるが運命というものだ」
弥助はすでに頼母抹殺を決心したかのようである。そこには、隠密というよりはお富の虜になった弥助がいるようであった。その姿を見定めたお富は、「風に吹かれてくる」と言って小屋の外に出ると、小屋まで迫る裏山の鬱蒼とした森に向かって、「コンコン」と呼び声を上げた。すると月光に照らされた森から、木霊のように三つの鳴き声が帰ってきた。
お富が小屋に戻ると、弥助は床に転んで眠りこけている。「男とはかくもたわい無いものか」と、お富は見下ろしている。そのとき、いつの間に入ったのか、小屋の天井には狐が二匹張り付き、庭の竈の隅に一匹が隠れていた。
弥助が人の気配を感じたのか目を覚まし、あたりを見廻しながら、「お富、戻ったか」と体を起こすと、お富はそれを支えてやる。
「先程のことだが、頼母を角左衛門屋敷に招いて、幕府隠密の威光を示してやろう。われ等に刃向かえば、狐に噛み殺されると脅せばよかろう。角左衛門がまことは幕府隠密の組頭であることを示さば、頼母はたじろぐに違い無い」