テポドンの危機
国を裏切るという、上原の、その言葉の意味を再び洋平はかみ締めた。そしてもしそれが本当に行われたら、この会場で、多くの人々を巻き込んで…事態の重さを次第に体で感じ始めた洋平だった。しかし、そのことよりも増して彼の心を占めていたのは、一人の女性、そう、硝の安否だった。それが恋愛の感情を伴ったものなのか、単なる同胞への友情なのか、未だ彼自身判別は付かなかった。洋平はふと上原の視線から顔をそらし、控え室の横にある小窓を見上げた。窓の外は粉雪が降っていた。その窓に一瞬、硝の微笑む笑顔が浮かんだような気がした。その時、なぜか、洋平の心にひとつの思いが芽生えた。自分が行かなければ。理由のない、焦燥感と固い決意の入り混じった気持ちの高まりを、洋平は抑えることができなかった。それはいまや明確な意思となって、彼の口を告いだ。
「私が行きます。」
きっぱりとした口調で洋平が言った。
「….!?」
上原は一瞬その意味を把握しかねた。
「!私が行って、彼らと話をしてきます。」
洋平自身どうしてそれを口にしたのか判らなかった。しかし、今の状況の中で、解決できるのは、それしかいない。そう確かな直感が、彼にはがあった。
3月6日 開戦
…白い粉雪の舞う雪面を、一歩ずつ足元を確かめながら歩く一人の男の姿があった。首に巻いた青色のプロテクター。それは紛れもない木下洋平の姿だった。左手にいくらかの食料と、右手には携帯用ラジオ。耳元には特設本部と通信用の超小型簡易レシーバーが取り付けられていた。洋平の耳に彼の一挙一動への細かな支持が特捜本部から送られてくる。
“洋平さん。ゆっくり、ゆっくりと歩いてください。こちら、特設本部。聞こえますか。ゆっくりと歩いてください。“
キム チョンピル氏率いる共産党評議会を代表したもので、そのあとに、”上原君、これが北朝鮮からのメッセージだ。われわれはなんとしても自体を無事収集する必要がある。“警視庁本部室長実筆で、そう、書かれていた。
時を、離れずして、ようやくのこと、この青森会場にいる北の選手団からメッセージが届いていた。彼らは全員がアメリカへの亡命を希望していた。日本政府がそれを取り計らうこと。さもなければ人質の命は保障しないということだった。岐路に立たされた上原、そして洋平たちの運命だった。しかし、もっと大きな岐路。それは、日本、そして、世界の将来をも巻き込もうとしているかのようだった。
青森の北部はいわずと知れた、いたこの慣わしで有名である。この冷涼とした、北端の地域一帯が一際慌しくなった。目の見えぬ、年老いた老婆たちがなにやら意味不明な言葉を天に向かって叫び始めていた。町の酒場で、奏でられる津軽三味線の響きが一層その激しい高まりを増していた。
突破口
洋平は赤い絨毯の敷き詰められた、新刊のホールを横切ると、エレベーターの前にやって来た。十二階のボタンを押して、手荷物を持ったまま、中に入った。次第に速度を速める閉ざされた空間の中で、意味のない胸苦しさを覚えた。暗いチュウブを通り抜け、まるで別空間にワープするのではないかと思われた。
アメリカ、ワシントン州のアパートの一室で、非常用の赤い電話が鳴っていた。
眠りに着いたばかりの男がベッドから呼び起こされ、その黒い手を伸ばし受話器をとると、いつも聞きなれた、人懐こいが、決して予断を許さぬ声が聞こえた。この緊急回線を使って連絡をして来るのはこの世でたった一人。男は、意を決っして受話器に話しかけた。
“Yes…Mr. President….Ok. I understand…No, problem. I’ll be there in about 30 minutes.(…はい、大統領閣下。。分かりました…後30分程でそちらに向かいます。)
電話を取ったのは現国務長官、コリンパウエル氏だった。彼は頭を二三度振った後、眠い目をしばたきながら、軍服に着替えなおした。急いで、政府調達の白いワゴンを走らせ、ホワイトハウスに駆けつけた。真夜中の森閑としたホールを抜けると、既に特別会議室には見慣れた顔が、彼の到着を待っていた。
“I’m sorry to be late. Mr. President.”(遅れて申し訳ありません。)
そう言いながら、彼は、いつもの自分の席に向かった。隣のライス国防長官に軽く目配せをした後、自分の席に付いた。ライスが黙って書類の束を手渡した。
“We are now under emergency… (緊急事態が発生した…) ”
プッシュ大統領がおもむろに口を開いた。
“Japan is under military threat from North Korea…”(日本が、北朝鮮の軍事的脅威にさらされている。)
在席中のみなの顔に緊張の色が走った。
“What’s the level, sir? (レベルは幾つですか?)“
パウエルがすかさず聞いた。
”…Level 7…“(…レベル7!)
一瞬の沈黙の後、プッシュ大統領が言った。
再び緊張と、どよめきが上がった。
レベル7というのは臨戦体制である。
9.11の直後、警戒レベルはレベル6まで高まった。それでも報復攻撃はおこなっていない。
今度のレベル7というのは明らかに攻撃準備、という指令である。
パウエルは、一瞬、得意の目を大きく見開き、顔をこわばらせる表情をした。その後、隣のライス長官に一瞥し、そして、ゆっくりと目の前のconfidential(極秘)と印刷された、白いレポートのページをめくり始めた。
北朝鮮、軍部司令室。
ここには数人の高官と、総督キム チョンピル氏しか入ることは許されていない。監視用モニターや古びたコンピューター群の間に挟まれ、多くの計器の中央に丸い赤いボタンがあった。これこそ、北の最新兵器、核弾頭搭載のテポドン発射用のスイッチだった。
まるで無造作に配置されたボタンは白い透明のプラスチックの箱に覆われていた。普段は鍵がかけられ、その鍵を有するのは唯一、総督キムジョンイル氏、だけだった。今は森閑として誰もいない部屋に、これから数人の高官達が集まることになっていた。そして、その中にはもちろんかの人、キムジョンイル氏も含まれていた。得意の黒いサングラスをかけ、勢いよく扉を開けてまず現れたのは、キム氏その人だった。
取り巻きを威圧するかの様に、両手を大きく広げ何か口走っている。感情を取り乱しているのは明らかだが、それが本心か、あるいは凄みかかった演技なのか、回りの連中にもわからない。しかし、事体の深刻さだけはだれもが共通の事実であり、またキム氏自身が最も恐れていたことでもあった。なだれ込んだ4人が監視用モニターのひとつの前に座りこんだ。衛星とつながった、モニターには世界各国の様子が映し出されていた。そこには当然、日本の様子も含まれていた。
開口一番、キム氏が言った。
「….イルボネ クンギョク ジュンビ..イッソヨ…」
日本を攻撃する用意はあるか….
まず彼が知りたかったのは北の攻撃態勢だった。
「ネー…… ………」
高官の一人が答えた。
準備は常に万全です。しかし、問題はその後です。
「。。。。。。」