テポドンの危機
警察庁本部からその男が到着したのは10時20分を少し過ぎたころだった。
「部長、東京から上原警部が到着しました」。
敬礼をしながら、田辺巡査が三沢の目を直視して言った。先ほどの不安げな顔色は彼の顔から無くなっていた。東京という言葉によほど安心したらしい。
「さすがは警察庁本部。この雪の中でも時間に正確だな…」
三沢はそう思いながら、「よし、通せ。」と言った。
扉の向うから入ってきたのはいかにも洗練された警視庁本部からの助人、上原、だった。
まっすぐな姿勢で、地味な紺色の背広にねずみ色のマフラーを首に巻いた30半ばくらいの青年が、三沢に向かって言った。
「東京の警察庁本部から参りました、上原です…説明をお願いします。」
男の目はじっと三沢を見据えたまま、笑っていなかった。ただ、その緊張感を漂わせた目の奥にはどこか落ち着き払ったまなざしがあった。それが三沢をいくらか安心させた。
上原の態度には余計な儀礼や、挨拶は一切無かった。ただ事態の様子を克明にそして、出来る限り正確に知りたいという、極めて冷静な実務的姿勢だけがうかがわれた。考えてみれば当たり前のことだった。ほんの少しの判断ミスが、尋常でない事態を招きかねない。その危険を上原は十分に、承知していた。そしてそれは三沢も同じであった。
「大まかな流れは伺っております。後、三沢警部の知る限りの情報をお聞かせください。」
三沢は、北の選手団が少しずついなくなったこと。その後、他の国の選手も巻き込まれたことなど、知る限りの情報を出来る限り細かく話し始めた。その中には当然、洋平が拉致されそうになったことも含まれていた。
「それで、その日本人で拉致されそうになったという方…」
上原が、三沢を頑強の奥から、上目使い見上げて言った!
「ああ、洋平さん。通訳の方のことですね。」
三沢がそう答えると、
「通訳….?!」
一瞬、上原の脳裏に何かが浮かんだらしかった。
「…その通訳の方に合わせて頂けませんか。」
上原は真剣な眼差しでそう言った。
「もちろん、良いですとも。」
三沢は軽快に引き受けると、田辺を呼び、
「おい、通訳担当の木下洋平さんを呼び出せ。警察本部の方がお眼にかかりたいとのことだ。」
そういう三沢を上原は一瞬、毅然として制した。
「大丈夫です。私のほうから伺います。」
細めの顔を一層、きりりと引き締めてそう言うと、引き締まった体を椅子から立ち上がった。薄暗くタバコの立ち込める部屋から出て行った。
洋平たちは相変わらず、控え室でやきもきしていた。黄色のヤッケを着た宇宙服まがいの連中がまるで宇宙船のカプセルに閉じ込められたように、息苦しさを感じながら、事態の進展を見待っていた。
東間が、そのとき、役員室からこちらを覗き込んで言った。
「洋平さんにご面会の方です。」
少しはにかむ、東間の声に、皆一斉に洋平のほうを見た。暫くして、一人の男が控え室の中に入ってきた。男は、ゆっくりと首のマフラーをはずしながら、言った。
「警察庁本部の上原です。洋平さんはいらっしゃいますか。」
皆の視線が、上原と洋平とに交互に注がれた。
「私が、洋平ですが…」
洋平は、黄色のヤッケを着たまま、一歩前に進んだ。一瞬、プロテクターの奥の首の辺りに小さな痛みが走った。
上原の鋭い目付きにも洋平は一瞬たじろいだ。
小さな部屋の中で、濃紺の背広姿と、宇宙服まがいの黄色のヤッケが妙なコントラストを醸し出していた。
突撃
「洋平…さん、ですね。」
上原はゆっくりと言葉を確かめるように言った。穏やかな言い回しだが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。どこか、獲物を確かめるような、鋭いまなざしに、洋平は一瞬冷たさを感じた。しかし、上原はいかにもなれた仕草で、すぐにもとの柔らかな物腰に戻った。
「は、はい。」
洋平はいつもの癖で、少しどもった。緊張するとすぐに口が堅くなる。通訳の癖に我ながら情けないといつも思った。今度も同じ。鋭い目付きの上原に見据えられて、まるで捕らえられた獲物のように、体を強めた。
「あなたが、拉致されそうになったことで、詳しくお話を伺いたいのです。」
ソフトだが、屹然とした言い方だった。
「もちろん結構です。」
意を決したように、洋平は上原に向かった。二人は互いに見詰め合ったまま、細いテーブルに向かい合うように腰をかけた。
「洋平さん、あなたのそのプロテクター…」上原が、話を和らげる意図で、ゆっくりと話し始めた。
「洋平さん。事態の概要はご存知ですね。
「おおよそのことは….」
洋平は上原の目を見つめながら言った。
「メヂアにはまだ内密にしてあります…」
「もちろんわかります。」
「いずれ彼らにも分るでしょうが…」
上原が少し力なくそう言うと、
「それで僕たちは、一体どうすればよいのでしょうか。」
洋平が食ってかかるように上原の顔を見つめて言った。
「実は私たちも考えあぐねています。下手をすれば国際紛争の火種になりかねない。いや、これは大げさではなく、本当にそうです。」
上原が顔を上げ、めがねのレンズを拭きながら言った。鋭い視線が洋平の目をじっと見つめていた。その奥に秘められた不安、執拗、警戒や恐れなどの感情は見事に押し殺されていた。こうした職業的習性を上原はかなり早い時期に習得していた。それが彼をまれな昇進へと導いていたことは疑いのないことだった。
洋平ももちろん仕事柄、世界の情勢には通じていた。今この時期に北朝鮮と間に問題が起これば、ただでは済まない。まして国際的イベント会場では他の国々の選手もかかわっている。自体はいっそう複雑になるだろう。しかし、ことの真相はこの二人のどの想像をもはるかに超えていた。今、洋平と上原の二人、そして、この東北の片田舎に集まった人々は、その大いなる暗闇の大海原の淵に立たされているのだった。
「私たちにも解決策はありません。このような出来事は初めてです。」
上原がきっぱりとした口調で言うと、
「では、どうすれば!北朝鮮とは連絡が取れているのですか…?」
洋平のほうは未だ、感情を押し殺す術には長けていない。思いがそのまま口をついて出て来てしまう。
「北からは、まだ何の連絡もありません。おそらくは事実を認めたくないのでしょう。最後まで自己弁護を行う国です。自分たちの指導者が国を裏切るなどということは死んでも、認めたくないのでしょう…」