テポドンの危機
頭の中の霧が次第に晴れて、彼女の目の前に浮かんだのは小さな呻き声の数々だった。彼らは、少しずつゆれながらも、決して大きく動くことが出来ない様だった。あるものは縄で縛られ、またあるものは後ろ手に手錠のようなもので、身動きが取れなくなっていた。薄暗いフロアーにそれらの影が10個、いや20個あまりもあるかと思われた。どの体も自分から動くことは許されず、ただ陽炎のように時折小さな呻き声を上げながら、揺らめいていた。異臭が漂っていた。紛れも無い人間のものだった。しかし、それは日常のものとは違いどこか獣の匂いがした。思わず 硝が、手で口をふさごうとしたとき、自分の手が後ろ手に組まれていることを知った。言いようの無い怒りと恐怖感が、彼女の胸にこみ上げた。
「な、なんだろう。ここは一体…」
そう自問する間もなく、誰かが彼女に近付いた。意識が戻ったのを察して、見張りの一人が近寄ったのだった。その男は彼女に韓国語で話しかけた。訛りからすぐに北の人間だと分かった彼女は、同じ韓国語で答えた。
「。。。。。。。」
「。。。。。。。。。。」
なぜ、私をこんな眼にあわせるの。私はあんたたちの同胞。しかも差し入れまで持ってきたのに…男はすぐにそれには答えなかった。一瞬悲しい顔を見せたがすぐにもとの威圧的な態度に戻ると、あたりで揺らめく“者達”を指した。
「彼らを捕虜にした…」
「なぜ。なぜそんなことをするの。あんたそれでも朝鮮人か」
実直な硝はそう問い詰めざるを得なかった。男は相変わらず少し悲しい顔でこう言った。
「自分たちは、今ある計画をしている。お前にだけは言っても良いが、今はまだだ。」
男はそれだけ言うと、再び陽炎のように揺らめく影達の中へと入っていった。
ある者はスポーツウェアーを着たまま。また中には北欧系の白人もいるようだった。
「な、なんてこと!」
硝の胸に大きな悲しみがこみ上げた。それはもはや止め処も無く、自らの身を案ずることも忘れて、彼女の頬から大粒の涙が溢れた。
そのころ洋平たちは…
「早く彼女を探し出さなくては…」
洋平は、はやる気持ちを堪えることが出来ず、控え室の中を動き回った。飛鳥に、範、それから後から来た順子、さらに愛香までが心配そうに見守った。
「洋平さん、落ち着いて。」
飛鳥がたまりかねて口を開いた。
「そうです。洋平さんが気を揉んでも仕方ありませんよ。警察に任せるしか仕様が無い。」
範がおっとりとした口調でそう言うと、
「だって、こんなときに落ち着いてなんか居られますか。何人も人が居なくなり、今度は 硝さんまでが…警察は一体何をしているのです!」
「警察だって、あまり立ち入って踏み込めない事情があるのさ。何せ、国際問題になりかねない。慎重に対処しないと、一触即発なんてことになったら、大変だから…」
いかにも、デイビッドらしい分析だった。
「でも、このまま放って置いて拉致が開くのですか!」
洋平の息使いが荒くなってきた。今にもどこかに飛び出しそうな、そんな勢いを誰もが心配げに見守った。悔しさで唇が震えているようだった。
「だから、警察に任せるしか…」
範がそう言うと、洋平はこの間の警官たちの顔を思い浮かべた。
「どうもあまり頼りになるとは思えない…」
そう思ったとき、モニターの画面にスケートリンクの様子が映し出された。いつもの様に、静まり返った氷のフロアーに何人かの選手達が流れ込んできた。
「あれは、カザフの連中だな」
デイビッドがそう言うと、
「そう言えば、今日はカザフと北朝鮮の最終試合じゃない?」
飛鳥がスケジュール表を確認しながら言った。
「今日は。早速第一試合で、持ち点トップのカザフと、現在下位から二番目の北朝鮮との試合が予定されていた。
薄いグレーの落ち着いた色のユニフォームがリンクの両端を勢い良く駆け巡った。コーチの号令に選手たちが次々とサイドラインから中央に向かって滑り込んでは、鋭いシュートをゴールめがけて打ち込んでいた。
二十分ほどもした時だった。
デイビッドがポツリと言った。
「おかしいな…」
「何が?」
洋平が彼の方を、振り向くと、
「だって、北の選手が誰も来ていない…」
デイビッドの言う通りだった。試合時間まで、後10分あまり。カザフの連中はもうすっかり練習を終えて、呼吸を整えているのに、相手チームは誰一人顔を現していなかった。
さらに15分が過ぎ、場内はざわめき始めた。審判員と青いユニフォームの連中だけが寂しそうに氷の上に取り残される形となった。そのとき、リンク後方の扉が勢い良く開いた。
「大変です!北朝鮮の選手がいません!」
赤ら顔をした、少し小太りの係員が青ざめた顔で言った。
会場一斉にざわめきが広がり、役員と審判同士が互いに顔を見合わせた。カザフの選手たちも何かの異変に気付いたらしく、コーチのところに駆け寄っていた。
「た、大変です。北の選手たちがいません!」
赤ら顔の役員が再び言った。
洋平やデイビッドたちも、驚いた様子で互いに顔を見合わせた。
「ど、どうなっているのだ、一体?」
洋平にも訳が分からず、虚を付かれた思いでいると、
「何かが起きているのです。大変なことが…」
範が相変わらず落ち着いた口調で言った。
3月5日 警戒、警告
何かが起きている。この、東北の田舎で。なんでもない平和な土地のスポーツの祭典で、確かに何かが起きているらしかった。しかし、その正体はまだ、洋平たちの誰もが知るすべも無かった。
ホテルの周りの警戒が一気に厳しくなった。もはや警官たちは自らの存在を隠そうとはしなかった。雪景色に囲まれた白く聳える建物の周りを黒い制服の男たちが点在するように近付き始めた。彼らの目指すのは、敷地中央に立てられた12階建ての建物。新館の白い宿舎である。いつも洋平がバスから見上げる、あの白くそびえる建物であった。そして、その中の12階の一室。それが北選手団のフロアーであった。宿泊客たちも何かの異変に気付いたらしく、ざわめき始めた。警官たちは重装備とまでは行かないまでも、小銃と、あるものは自動連射銃を携えていた。
捜査本部の方でも、一気に緊張が高まった。
「部長、どうしますか試合のほうは。中止させますか?」
洋平の事件の際駆けつけた警官の一人が、いかにも心細そうな顔で三沢に聞いた。
アイスホッケイの試合は今日で終わり。明日からはショートトラック競技が予定されていた。
「い、いや。試合は出来る限り、続けさせるのだ。警察本部とも相談したところ、まだ公には出来ない。なるべく平時を保つようにとのことだ…」
ようやくのことでそう告げたが、三沢自身、気が動転していた。
「は、はい。分かりました。警部。」
いくらか不安げな顔色を残したまま,田辺がそう了解すると、声色を上げて、
「いいか、皆。なるべく平静を装うのだ。まだ事態を荒げてはならない。いいか。大丈夫だ。すべては指示通りに、落ち着いて行動すれば良い。分かったか。」田辺は、自らを納得させるかのようにそう言った。「はい。」 他の警官たちも神妙な面持ちで頷いた。
三沢は自分の腕時計を見詰めていた。
「警察庁本部が到着するのは10時半か。それまで何も無いことを祈るだけだ….」