テポドンの危機
10分が過ぎた。そしてさらに5分。会場内は騒然、ざわめき始めた。それから場内を重苦しい沈黙が覆った。さらに時間が経過し、すでに20分以上が過ぎ、場内に重苦しい空気が漂っていた。と、そのとき、ペナルテイベンチ後方の扉が開いた。コーチを先頭に赤いユニフォームを着た、北の選手たちが硬い表情をしながらも、白いリンクに戻ってきた。会場内から一斉に拍手が沸いた。洋平も思わず、彼女たちに拍手を送っていた。
「がんばれ。ウン、これでいいのだ。良かった。ね、デイビッド。」
隣で、リンクを見下ろす彼にそう言うと。
「ああ、ほっとした。これで徹夜は免れた。」デイビッドがいかにも安心した様子で言った。彼は選手競技団の役員通訳。問題があると、試合後、長時間にわたり役員やコーチたちと会議をしなければならないのである。
洋平たちがほっと胸をなでおろした、その直後。プー、と一つ、大きなホイッスルが鳴った。
”ゴール、ノースコリヤ“
場内アナウンスにどよめきが上がった。
一瞬の隙をついて、北朝鮮選手の打ったパックがまるで何かに吸い込まれるように、ふらふらっと宙を浮いて、日本ゴールに入った。
「まるで、神様がいるみたいだ…」
デイビッドが一人ポツリと呟いた。
「これでいいのだ…」
洋平は心の中で、頷いた。
試合後のインタビューでは北のコーチたちは多くを語らなかった。しかし、翌日の対韓国戦南北対決について聞かれると、少し声高になって熱くこたえた。毎回試合後に双方の監督や選手がホール中央に設けられた会見場で、インタビューを受けるのが常になっていた。洋平たちもその度に交代で、記者会見の通訳をするのだった。
3月4日 南北対決
その頃、硝が妙なことを言い始めた。
「私、北の人、応援したいです。」
洋平は、初め、その意味がよく分からなかった。
「どういうこと、硝さん。あなたは韓国を応援したいのでしょ。」
洋平がそう言うと、
「洋平さん。韓国人、皆同じです。私、北の人たちのところへ行って、応援したい。何か差し入れを持って行きたいです。」
そう言った。
「硝さん。止めてよ、そんなこと。ただでさえ、皆ぴりぴりしている雰囲気の中で、そんなことをしたら、困るよ。」
最初はほんの冗談かと、受け止めていたが、硝の真剣なまなざしに、洋平がたしなめるようにそう言うと、
「でも、私、どうしても行きたいです…」
いかにも韓国の女性らしく意思堅個に、そう言った。
今にも、行動に起こしそうな彼女を見ているうちに、洋平は何か異様な胸騒ぎを覚えた。
「….困ったことにならなければ良いけど….」
例の予感が彼の胸をよぎった。
いつものバスから見上げる、新館12階建ての建物は今日も森閑として雪の中にたたずんでいた。時折ちらつく粉雪が北の景色をいっそう寂しげに覆っていた。
翌朝、アリーナに着いていつもの様に控え室に行くと、いきなり誰かが勢い良く駆け込んできた。細い縁の眼鏡をかけたデイビッドがその奥の丸い眼を、もっと丸くして洋平たちに詰め寄った。
「!硝さんはいる?!」
つかみかかるようなデイビッドの仕草に洋平は、一瞬たじろいだ。
「そ、そういえば、今日はまだ見ていないけど…」
洋平がやっとのことで、そう言うと、
「や、やっぱり!」
デイビッドがその色白な北欧系の顔をゆがめて、いかにも悔しそうに言った。
「やっぱりって、どういうこと、デイビッドさん!」
飛鳥が問いただす様に、聞くと、
「硝さん、北朝鮮チームの宿舎に行ったらしい!」
デイビッドが洋平の目を見詰めて真剣な眼差しで言った。
「え、本当それ。デイヴィッド?」
言い寄る洋平に、デイビッドは重く肩をうなだれたまま、小さく頷いた。
「!本当なの、デイビッドさん!」
再び問い正す洋平だったが、実はそれは、彼自身が、半ば予期していたことだった。
「そ、それで、彼女は、まだそこに居るのですか…」
言わずと知れたことだった。しかし、驚きと、彼女を心配する気持ちの交錯した洋平は、そう聞かざるを得なかった。
「だ、だから彼らの宿泊所に…」
それって、彼女が自分から行ったのですか、それともまさか、
洋平は次の言葉を言い出しかねて、思わず飲み込んだ。まさか、硝さんまで、捕らえられたのでは…?
「自分で行ったのです。僕は止めたのだが。そして、そのままおそらく、彼らのところに居るのでしょう。」
デイビッドがいかにも残念そうにそう言った。
「え、えらいことになった!!」
洋平は心の中に起きた動揺を表わさずにはいられなかった。同時に彼の頭の中は素早く回転し始めた。この事態にどう対処したらいいのか。彼の思いは目まぐるしく駆け巡った。
囚われ
その頃、硝は広い部屋の一室で、眼を覚ました。薄くらいぼんやりとした景色の中に、うっすらと日の光がさしている。しかし、カーテンの閉まった窓からは外の景色はうかがえなかった。体を起こすと、軽い痛みを腰の辺りに感じた。
「あら、あたし一体どうしたのかしら。ここはどこかしら….」
昨日の記憶を思い起こそうとしたが、 硝の頭の中はぼんやりとしたままだった。
「私は、一体…」
暗い記憶の紐を手繰ろうとしたとき、硝は少しずつ昨日の出来事を思い出し始めた。それは決して心地よいものではなかった。
硝は昨日の記憶を思い出していた。
「そうだ、あたし….」
硝の脳裏にたった一人、彼らの控え室にやって来た自分が思い出された。南北の決戦が無事終わり、硝を交えての、一大記者会見が終わった後だった。硝にとっても初舞台で誰もが彼女の通訳振りをほめてくれた。洋平も硝の肩を抱いて、“よかったね、硝さん。見事だった。”そう激励してくれた。「今日はもう早く寝るのだよ。」そういわれた直後のことだった。
「ほんの少しだけ…」
硝の胸にかすかな思いがよぎった。誰にも気付かれない様、いつもの美しいな絵画の飾られたホールを小走りに、新館のロビーへと向かった。赤い絨毯を横切ってエレベーターに乗ると、12階のボタンを押した。扉が開いて、少し暗いホールが見えた。北朝鮮団控え室と日本語で書かれた、眼の前の部屋のドアーを開けようとしたときだった。
差し入れにと用意した、手つくりの弁当と、それに早朝の雪の中、寒さに凍えながら買い込んだスナックの数々…それらを手渡そうとしたとき、いきなり、誰かが、わしつかみに、硝のバッグをもぎ取り、彼女は後ろから羽交い絞めにされた。そして、口の周りにぬれたタオルが覆いかぶさり、そのまま、頭の中に霞がかかるように意識が遠くなっていった。溺れそうになりそうな記憶の中で、なぜか硝の脳裏に洋平の微笑む顔が浮かんだ。“洋平さん、ごめんなさい…”そう叫ぶまもなく、硝は眠りに落ちていった。どこか悲しく、そして不快感を伴う眠りだった。それは布にしみこんだ、薬品の匂いのせいかもしれなかった…