テポドンの危機
範が、この間と同じことを、小声で言った。それを機会に皆が話し始めた。
「…ねえ、北朝鮮の選手たちの服装見た…?」
「そうそう、ねずみ色のユニフォーム。きっとあれしかないのね。なんだか可哀想…」
昨日、到着したばかりの陽子が、長い手で箸を口に運びながら言った。彼女はまだ、東京の学校に通う女子高生だった。飛鳥と同じく帰国子女で、幼稚園の頃から両親とともにアメリカで過ごしていたとのこと。年齢にもかかわらず、抜擢されたのはその完璧な語学力と共に彼女の社会的関心度だった。飛鳥と同様、二人とも頭脳明晰なのは明らかだった。もちろん二人の話す日本語も流暢であった。
「洋平さん、首だいじょうぶですか。私、これとって上げます。」
洋平と硝は隣合わせで座るようになった。
「はい、どうぞ。私、お酒ついであげます。」
二人仲睦ましく、若い人たちの話を聞くが常であった。
硝と洋平の仲は急速に親しくなっていった。お互いに性格はまったく違う。ずぼらでおっちょこちょいの洋平と、細かな気配りの出来る硝が互いに補う形となった。硝の方も、洋平のおおらかさと気取らない態度に次第に引かれていった。宇宙服よろしく、狭いカプセルのような控え室で、お互いに緊張の場面を共有していれば、いやでも連帯感が沸いてくる。二人は互いの、生活や好みまで話した。きっかけは、硝の日本での専攻だった。彼女は大学で日本文学、中でも近代作家を勉強していた。そして、好きな作家は島崎藤村。洋平の故郷の近郊に馬込というところがある。かつての中仙道の宿場町の一つであるが、そこが、藤村の生まれ故郷であった。”木曽路はすべて山の中である。。”で始まる有名な小説、“夜明け前”は日本人の心の原点とも言える作品で、山岳の小さな集落のある街道を洋平も何度か訪れたことがあった。
「硝さん。藤村のファンなの!」
ほとんどの日本人は彼の名前さえ、もはや知らない。
思わぬところでめぐり合った相手に、まるで同郷の友人にでも出会った様な気がした。そして二人の間は急速に接近した。
「今度、ぜひ案内してあげます。いいところですよ。春は花が一面に咲いて、そして夏は歩いていても涼しいし。秋はまた紅葉が見事です。是非、案内します。」
「まあ。うれしい。私、とても楽しみです。」
そう言いながらきらきらした目で彼を見つめる硝を、洋平は美しい、と思った。
岩風呂へ行く途中、洋平はあることに気付き始めた。どうも選手団の数が減っているのではないか、という予感だった。たいてい、同じ時刻にいつもの選手とすれ違う。それが一人減り、二入減りという具合に、なんだかもの寂しげに静まり返ってきた。
「気のせいか…選手たちも。もちろん休息が必要なのだろう。」
などと鷹をくくっていた洋平だが、あるとき彼は、ただならぬ情報を耳にした。試合が始まって三日ほどした日のことだった。
いつものごとく、デイビットがその眼鏡の奥の目を神妙にさせながら、洋平たちのいる控え室にやって来た。
「これ、まだ秘密なのだけど…」
“やけに極秘情報ばかり掴んでくるやつだな…”
洋平はそう思いながら、彼の話に耳を傾けた。
デイビッドが神妙な面持ちで言った。
「実は…北の選手団だけではなくて、ほかの選手たちも姿を消しているらしい…」
「え! えええ?」
今度は驚いたのは、飛鳥を初め、洋平たちだった。
「それって、ほかの選手たちが拉致させているって言うこと?」
頭の回転の速い飛鳥が開口一番デイビッドに食って掛かるように聞いた。
「..べ、別に、僕が拉致しているのじゃないのだから...」
デイビッドが、たじろぎながらそう言うと、
「あらごめんなさい。私、別にそういうつもりで言ったんじゃないのよ…でもこの間の洋平さんのこともあるし。」
「え?洋平さんどうかなさったのですか!」
今度はデイビッドが驚く番だった。
「..洋平さん、この間拉致されそうになったの。ご自分の部屋で。」
範がいかにも大人らしい、落ち着いた調子で言った。
「そうなの。私たちその場所に、いたのです。」
硝が少し訛った口調で言った。
「え!ええ?本当ですかそれ!」
今度はデイビッドが驚く番だった。
捜査は極秘に行われた。三沢アリーナ失踪事件対策本部と、墨で書かれた特設控え室で、小太りの三沢部長が、部下を前に、少し押し殺した声で、はっきりとした口調言った。
「いいか、君たち。われわれは今、重大な任務についている。ひょっとすれば、日本国の将来にかかるかもしれない、重大な事件だ。」
三沢の言うのは本当だった。共産圏の人間が何人かいなくなり、選手までもが姿を消したとなれば、これは国際問題にもなりかねない。もし、これに一般人が巻き込まれれば、一大事件だ。洋兵の部屋に来た二人の警官もその仲にいた。彼らを含めて、およそ、20人ほどの警官たちが、長いテーブルを前に、神妙な面持ちで三沢の話を聞いていた。
念のため、三沢の航空部隊にも連絡を取った。東京の県警本部とも連絡を蜜にし、いざとなれば応援をたのむつもりだった。何せ、この様な事件はこの田舎では始めて。三沢一人で指揮を取るにはあまりに荷が重すぎた。
北朝鮮と、日本チームとの試合が行われた、3日、第二試合のことだった。そこで、北の選手団全員が退場してしまうという事件が起きた。日本側のレフリーの審判に不満を訴えてのことだった。
二階の観覧席から試合の様子を見ていた洋平が隣のデイビッドに小声で言った。
「確かに審判の反応が遅いですね。」
日本チームが1対ゼロでリードしたまま試合は後半戦にもつれ込んでいた。得点をめぐって次第に激しくなる選手たちの動きに、審判が付いていくのがやっとだった。反則ぎりぎり、あるいは小さな反則が審判の目をくぐって行われ、互いの選手は熱くなっていた。
そして、さらに一点が加わり、日本チームが2対0でリードした時だった。
思い余った、選手たちがコーチを先頭にベンチ後方の扉から出て行ってしまった。
「でもジャッジの判断は絶対だからね。」
デイビッドが眼鏡の奥の丸い目をもっと大きく見開いて言った。
「彼女たちちゃんと帰ってくるといいけど。制限時間は10分以内。」
いかにもルールに詳しいデイビッドらしい言い方だった。
「それで、時間内に帰ってこないとどうなるのですか?」
当たり前のようなことだと思ったが、洋平が恐る恐る聞くと、
「連中の試合放棄、負けということになるね。」
はっきりとした口調でそう言った。
洋平はなんだか不安な気持ちに襲われた。いくら審判に不服だからといって、退場したままでは負けになる。まして北朝鮮チームのこと、その負けを容易には受け入れないだろう。そのときのごたごたを想像すると、ここは何が何でも帰ってきて欲しい。そう願う洋平だった。