テポドンの危機
会場責任者の東間が声をかけた。東間は物腰の優しいハンサムな、20代後半の男だった。後から聞いた話では、東間自身、アイスホッケイをやっていたということだった。しかし、そのやわらかな話し振りからは想像がつかない。東北人特有の人柄なのだろうか。洋平たちは、
「わかりました。」
そう言って、控え室に腰を下ろした。
早速、資料を取り出し競技ルールや今日のスケジュールを確認する。午前、9時半から練習が開始され、各チームに与えられた時間は1時間余り。今日は二チームが予定されていたが、カザフの練習はキャンセルされた。一通り準備が整ったところで、リンクに出て練習風景を見ることにした。ちょうど日本チームが練習を行っていた。よく訓練された選手たちの動きはまるで、牧場に放たれた羊の群れのようだった。コーチの号令ひとつで、皆が一斉に動く。そのリズムと躍動感に満ちた練習風景に洋平たちは再び圧倒された。
「まるで鯉の群れが散っては又、集まるみたいだ。」
洋平は心から感心した。
「この子達、まだ子供なのね。みんな可愛い顔をしているわ。」
愛香が、彼女たちのあどけなさに見入っていた。
昼食をとっていると、事務局の方が一際忙しくなった。
「北朝鮮チームが今晩到着するそうです。」
誰かが声高にそう言った。
「….今晩いよいよ到着か。」
期待からか、不安なのか、箸を握り締める洋平の手が一段ときつくなった。
夕方4時半ごろ辺りは急に騒がしくなった。報道関係者の動きが一瞬、活発になった。事務局のテレビではどこかの空港の様子を写し出している。
「今、中国の保金空港で乗り換えたそうです。」
事務局の一人が言った。
「後、二時間ほどで到着か。ちょうど自分たちが仕事を終えて帰る頃だな…」
洋平は一人つぶやいた。
今回の仕事では、洋平は何かただならぬ、予感を感じていた。それは、単に通訳の仕事に行くという以外のものだった。それが何なのか、彼自身まだわからなかった。実際、首の怪我を理由に断ろうと思えばいくらでも出来た。しかし、自分はどうしても行かねばならない。洋平には、得体の知れぬ焦燥感があった…
洋平たちを乗せた帰りのバスが、ホテルの玄関に着いた。ロビーは報道関係者や選手達、それに役員等でごった返していた。期せずして、北からの選手団の到着と一致したらしい。カメラが一瞬、洋平たちの方を向いたが、もちろん自分達とは関係ない。黄色のヤッケを着たままその場を通り過ぎようとした時、範が、今晩の食事の場所の確認をするといった。洋平は一刻も早くその場を立ち去りたい衝動に駆られたが、彼女が場所を確かめる間、3人はその場に取り残される形となった。プロテクターを首に巻いたまま、報道陣たちのごった返す中を、醜い姿で右往左往する洋平だったが、それにくらべて、硝や愛香は、冷静そのものだった。範がようやく夕食の場所を聞き出すと、4人は混雑するロビーを後にした。黄色のヤッケを着た洋介たちは、宗方志功の版画や書の掛け軸が見守るホールを抜けて、食堂へと向かった。
夕食の席で4人は今日一日を振り返った。今晩の夕食は刺身や、魚の煮付けなど海産物が主だった。さすがに海の近くとあって、鮮度が違う。普段は味わうことのできない食材に、誰もが満足げな様子だった。
「家では、主人はきっとカップラーメンを食べていますわ。」
範がいかにも申し訳なさそうに言うと、みなに笑いが込み上げた。
洋平は一人、あまりにすべてが順調で、どこか理由の知れぬ不安を感じていた。
洋平は部屋に帰るといつもの癖で、一人ベッドのそばで天に向かって祈りを捧げた。北国の空の月は薄かった。その傍で小さな星たちが輝いていた。
二月二十九日晴れ
予告
翌朝、空はきれいに晴れた。
朝早く食事を取り、バスに揺られてアリーナに行くのが日課になった。バスは7時20分きっかりにホテルを出発する。そして、30分ほど揺られて、アリーナに着く。その間、洋平はホテルのスタンドで買った新聞に目を通すのが常だった。この地方紙の藤和日報では、ほとんど必ず冬季大会の記事が出た。そして、いつも一面を飾るのは北朝鮮関連の記事である。今日も、選手団到着の様子が大きく載っていた。新聞を読み終わると白い平野を遠く眺める洋平。そして、今日の無事を願うのであった。
バスから下りると、雪の地面を注意深く歩きながら、洋平はアリーナに向かった。何せ転んだら一貫の終わり。そのまま病院送りにもなりかねない。首のプロテクターを気にしながら下目使いで地面を確認しては、足を滑らすように歩いていく。警備の人たちが4人に快く挨拶をした。
今日からメヂア関連のスタッフの数が増えた。昨日、北朝鮮チームが到着したせいだろう。今日から、彼女たちの練習も始まるのだった。
控え室で、洋平が、
「硝さん。今日の北朝鮮チームの練習時間は何時からでしたっけ。」
そう聞いた。
「9時半からです。」
硝が答えた。
某テレビ局のカメラマンの一人が、洋平たちの詰め所に入ってきた。何でも洋平たちの仕事振りを取材したいとのこと。まだこれといった大きな仕事はない。それで一通りみなの顔をカメラに収め部屋から出て行った。一見すると、どの顔もどこかあどけなく、頼りなさそうな顔をした面々。黄色のヤッケを着て宇宙飛行士とも思えるような場違いさが漂う。しかし、みなそれぞれ他国の言葉に長けた、戦士たちであった。
午後、食事が終わった頃、デイビッドが顔を出した。彼は何かと内部の情報を持ってくる。そのデイビッドが妙なことを言った。
「実はね、これちょっと内緒なのだけど…」
眼鏡の奥から大きな眼でこちらを覗き込むように、ゆっくりと話始めた。
「実はね、これうわさで聞いたのだけど…」
デイヴィッドの話はこうだ。どうやら北朝鮮選手団の中から少しずつ人が居なくなっているらしい。到着して、間もない間にすでに三人ほど行方が分からなくなったそうだ。範の話によれば、国際大会では良くあることらしい。共産圏の選手がそのまま脱走して居なくなるということだ。
「それで、その連中はどこにいるのですか。」
洋平が、少し間の抜けた質問をした。
「それがわからないから脱走じゃないの。」
昨晩到着したばかりの飛鳥が、いかにも彼女らしい、頭脳明晰な答えを出した。
「なるほど、ごもっとも。しかし、随分と危ない話ですね。どこにいるのかわからない。それじゃまるで狂犬を放しているようなものだ。」
洋平がそういうと。
「私、なんだか心配。」
硝がいかにも不安げに言った。
夕食の後、洋平は与えられたツインの部屋で翌日のための準備をしていた。すると、誰かが扉をノックする音がした。
「誰ですか…?」
そういいながら洋平は扉のほうに近付いた。
「誰、硝さん?」
そう言って扉を開けようとした瞬間、二三人の男が洋平の部屋になだれ込んだ。
「あ!」
という間もなく男たちは洋平に飛び掛った。
「な、何をする、お前たち。いったい誰だ。」
そう言いながら、洋平の胸をよぎったのは、例の脱走した北朝鮮の連中のことだった。
「は、離せ。お前たち。北の脱走者だな。なぜこんなところに来る。」