テポドンの危機
「すみません。乗せてください。」
少し訛りのある声で、二十代の後半らしき女性が入ってきた。白のジーンズにオーバーコートを着たその女性は、いかにも快活そうに見えた。
「どうぞ。」
洋平はにこやかにそう言った。
「ありがとう。」
女性はどこかはにかんでいた。エレベーターの中でも下を向いたままだった。活動的なその様子とはどこか、似合わない仕草だった。一階に着くと洋平の方から先に外に出た。ロビーに向かって歩いて行こうとしたとき、洋平は振り向いて声をかけた。
「あの、ひょっとして通訳の方ですか。」
「はい、韓国語担当の硝と言います。」
少し驚いた様子で彼女は答えた。
「私、韓国人です。 」
別に、洋平は何も聞いていないのに、彼女は自分の方からそう言った。
「あ、それはどうも。僕は木下洋平。英語担当です。よろしく。」
「どうぞ、よろしく。」
硝はそう言って、小さく会釈した。
洋平が歩き出しても、彼女はうつむき加減のまま彼の後ろを歩いている。洋平は仕方なくそのまま、受付ロビーのある第二ホテルへと向かった。
ロビーでは、相変わらずの警備体制だった。すでに到着した選手たちや、忙しそうに動き回る役員たちの姿も見えた。先ほど部屋の前で会った、中国語担当の範の姿が目に留まった。一言二言、言葉を交わした後、幾人かの人々と供に、玄関前に止められたバスに乗り込むと、すでに硝の姿はその中にあった。洋平が彼女の横に来た時、硝と目が合った。
「どうぞ、座ってください。」
少しためらう洋平に声をかけたのは、硝の方だった。
洋平は僅かに驚いたが、
「ありがとう。」
そう言って、彼女の隣に腰をかけた。
アイスホッケイとショートトラック会場の三沢アリーナまでは、バスで30分ほどの距離だった。車中から眺める、学校帰りの小学生や、中学生の赤ら顔がやけに素直そうに見えたのは、旅の感傷のせいかもしれない。白い広大な平野に点在する民家や立ち並ぶ町並みの幾つかを通り過ぎると、やがて、洋平たちを乗せたバスは会場に着いた。
通訳は洋平を入れて4人だった。中国語の範。韓国語の硝、ロシア語の愛香。そして英語担当の洋平である。後から二人、さらに英語通訳が来る予定だった。会場の下見をしながら、4人は互いに紹介し合った。会場担当の東間、それに事務局責任者の鈴木らと顔合わせをした後、残った時間を洋平たちは、会場アリーナの観客席に腰をかけて、選手たちの練習風景を見ることにした。
想像した以上に選手たちの動きが早い。とても女性選手とは思えなかった。パックを操る手さばきは見事で、四人は皆、押し黙るように見入っていた。氷を滑るエッジ捌きも軽やかで、まるでどこか別空間を走っているように見えた。
「すごいスピードですね。」
洋平が思わずそう言った。
「私、早すぎてついていけませんわ。」
範が、ため息混じりにそう言った。
会場内は氷で冷え切っていた。観客席にいた洋平たちもさすがに寒さに堪えきれず、帰宿用のバスに乗って、アリーナを後にした。
ホテルに着くと、4人は事務局に行き、通訳用のアノラックをもらった。黄色のオーバーコートの形をした着用着は、大会関係者としていつでも分かるようにとのことだった。エレベーターのところで他の3人と別れ、洋平は自分の部屋に戻った。
その日の夜は、早めに食事をすることにした。明日からは午前8時から夜8時までの12時間勤務である。ホテルに帰ると9時を過ぎる。不規則な食事は洋平にとって辛いが、仕事だから仕方がないと、腹をくくった。洋平は浴衣に着替え、風呂に行く用意をした。
「さて、一風呂浴びよう。」
そう思った、その時、誰かがドアーをノックする音がした。開けてみると、範だった。
「木下さん。よろしければ、夕食ご一緒しません。皆で、下のレストランで待ち合わせることにしましたの。」
そう言った。
「あ、わかりました。じゃあ、ご一緒させていただきます。」
一人でゆっくりと、とも思ったが、やはりまずは皆と親睦を深めておかなくては。洋平はそう思い直して、答えた。
食事の席では、おのずと洋平の首のプロテクターの話になった。
「一体、どうなさったのですか。そのお首・・。」
硝が、開口一番そう聞いた。
「実は、家内と旅行したとき旅先で….」
洋介は、島で自転車から転倒したこと。ヘリで病院に運ばれたこと。そのまま島の病院で入院したことなどの、いきさつを話した。
「それで、大丈夫なのですか。お仕事の方は。」
範が心配げに聞いた。
「幸い大事にはならなかったので。でも、医師はまだ暫くこれをつけて置くようにと言うものですから。」
洋平は、首に巻いた青色のプロテクターを指して、言った。
テーブルには、後から二人、エイジェントからの通訳が来た。一人は二十代後半の女性、もう一人は30歳少し超えたくらいの外国人で、二人とも北海道から来たという。外国人が、話す言葉は北海道訛りの日本語。英語のかけらもなかった。
「それで、木下さん。その首どうしたんですか。」
デイヴィッドというイギリス生まれの彼が、北海道訛りで聞いた。
「木下さん。また、同じ説明ね。」
範がからかうように言うと、洋介は先ほどと同じように事の成り行きを説明した。
雑談やら情報交換やらで、一時間ほどが過ぎた。明日の仕事に備えてと、それぞれ早めに部屋に帰った。旅の疲れと、緊張感とで洋平は軽い疲労を感じた。浴衣に着替え早速、日本一と歌った岩風呂につかると、そのままベッドに沈み込むようにして眠入った。
翌朝はやく、洋平は、北の冷気で目が覚めた。
二月28日 始まり
急いで、朝食を一階のレストランで取った。バイキングスタイルで、これといって目新しいものはないが、一通り取り上げて慌てて口に運んだ。駆け足でバス発着所に行くと、すでに硝がそこに待っていた。
「木下さん、早く。バスがでますよ。」
「鞘さん、食事は?」
洋平が聞くと、
「遅く起きたので、食べて、ません。さあ、早く。」
そう言って、洋平を促した。
後から、範と愛香の二人もあわてて乗ってきた。
「よかった。間に合ったわ。」
息を切らせて範が言った。
「ああ、間に合った。」
少し、前のめりになりながら、小柄な愛香が言った。
バスから眺める景色は白一色で、時折、学校に通う子供たちの姿があった。赤ら顔で白い息を吐いて、足早に歩く子供たちの顔はどこかあどけなかった。雪をかむった田んぼの向こうに小さな家々が転々と見えた。立ち並ぶ店並や、役場を通り過ぎて、バスはアリーナに着いた。初日というので職員の方々と一通りの挨拶をする。ここでも警備は厳重だ。洋平たちは通訳の控え室へと案内された。それは会場運営事務局のすぐ後ろにあった。事務局では誰もが忙しそうに働いていた。備え付けのテレビにはアイスアリーナがモニター画面に写し出されていた。もちろんまだゲームが始まっていないので、ただ白い氷のリンクだけが静かにその姿を現していた。やがてここから白熱の試合やレースが見られるのだろうが、今は未だ、製氷車が氷の上を滑るように動いているだけだった。
「…しばらくここで、お待ちください。」