テポドンの危機
2月21日
プロローグ
ここは沖縄。青い海の広がるチュラさんの島。洋平は妻頼子と久しぶりの休暇を過ごしていた。沖縄は彼女と学生時代初めて一緒に旅したところでもあった。今度の青森での仕事を控え、すこし、鋭気を養おうという思惑もあった。
洋平は、ホテルの隣のサイクリングショップで自転車を借りると軽快に青い海の広がる景色を背中に、風を切って二輪車を走らせていた。
「さすがは沖縄、景色も空気もさわやかだ…」
そう思いながら、ホテル周辺のサイクリングコースを回っていると、今晩、自分等が
宿泊予定の部屋の前に、妻の頼子が立っているのが見えた。
「よし、ひとつ俺の精悍な走りをみせてやる。」
洋平はそう思い、アスファルトの道路から芝生を横切り、土手を下って彼女のところに駆け寄ろうとした。その時、部屋の敷地の手前に小さなくぼみが見えた。わずかに水が流れる小川の様だった…
「よーし、こんなもの…飛び越えてやる。」
そう思った洋平は、くぼみに向かってスピードを上げた。手前で前車輪を上げて、乗り越えようとの魂胆だ。妻、頼子はそれを見守りながら、僅かに、不安がよぎった。
あっという間もないことだった!
「あ、あああああー!!」
見事に上げようと思った前車輪は洋平の思惑とはまったく別に、低空飛行のまま、反対側の土手に激突、洋平はそのまま自転車とともに一回転した。しかも頭から着地…妻が目の前で見ている間の出来事だった。
「い、いたたたー!」
顔面を芝生に埋めたまま、体を動かすことができない洋平。左の肩から腕に異様な痛みが走った。
ホテルの一室からあわてて二三人の男が駆け寄ってきた。
「い、いかん。すぐ救急車。君は動かないで!」
そう言って、亀のように這いつくばいながらも、尚、もがいている洋平を制した。
「い、いたたた―。これはやばい!」
頼子がゆっくりと洋平のところにやって来た。
「すみません。ご迷惑をおかけして。どちらの方で。」
そう聞くと、
「僕たちはこの島の医師です。ちょうど今日滞在する予定でした。でも専門は内科なので、彼をすぐに病院に連れていってください。動かさないほうがいい。」
そう言った。
救急車のサイレンが慌ただしく鳴り響き、ホテルの敷地に駆けつけた。洋平は島の診療所でレントゲンを取った後、ヘリで隣島の病院へ搬送された。そして、そのまま絶対安静で一週間を過ごすこととなった。沖縄に着いてから僅か3時間あまりの出来事だった…
駅のホームで旅行かばんを手渡しながら、頼子が言った。
「あなた、大丈夫。気をつけてくださいね。変なまねはしないこと。ちゃんと通訳だけやっていれば良いのですからね。先生も座っての仕事なら多分大丈夫でしょう。でも絶対に無理はしないように。そう仰っていましたわ。」
「うん。わかった。心配ない。ちゃんと大人しくしているから…」
ゆっくりと、かばんを受け取りながら洋平は答えた。首には青色のプロテクターがしっかりと固定され、彼の安全を守っていた。冬装備のコートの下にはめられたプロテクターは、いかにも窮屈そうで、洋平の体の動きはぎこちなかった。
「まあ、のんびり温泉にでも浸かっているさ。せっかくの東北の仕事だから…」
洋平はフリーの通訳である。普段は英語を教える傍ら、時折舞い込む通訳の仕事があると、スケジュールを調整して、その間、業務に専念する。通訳と言えば、聞こえはいいが、見入りはそれ程良くない。しかも、常日頃から、仕事のための訓練は欠かせない。語学力はもちろんのこと、通訳としての、逐次、シャドウイング、そして同時通訳の練習など、好きでなくてはできない仕事である。それでもかれこれ十年余り、これをやっているのは、多少なりとも世の中からの独立が保てる仕事だからである。途中、中小の貿易会社、広告代理店やコンサルタント、果ては工場のラインや道路の旗振りまでやってみたが、結局、今の仕事に落ち着いた。おそらくは自分の天職なのだろう。近頃、そう思い始めていた。
このところスポーツ関連の仕事が多くなってきた。折りしも、二月下旬から青森県で、女子アスホッケイなどの冬季オリンピックが開催されることになった。そこで二週間ほど、滞在しての業務だった。
「あなた、行ってらっしゃい。お土産、待っていますからね。気をつけて。」
妻がそう見送った。
「いつも心配ばかりかけている….」
そう思いながら、列車の窓から、ホームでいつまでも手を振る頼子の様子を眺めていた。それほど、収入の多くない生活を頼子は黙って支え続けた。次第に彼女の姿が小さくなって行く。それでも彼女はまだ、手を振り続けていた。
洋平は首を固定したまま、移り変わる外の景色を眺めた。東京駅で東北新幹線に乗り換えると、洋平を乗せた八戸行き特急「はやて」は、一気に速度を増した。あたりの景色が次第に白く変わって行く…
その間を列車はまるで跳び越すように、一路、青森へと向かって行った。
第一章 雪国
ホールを抜けて第一ホテルに向かう。両脇に並ぶガラス張りのショーウインドウには宗形志功の版画や著名な作家の書などが飾られていた。東北の田舎ながら、人目で由緒あるホテルだとわかる装飾だった。洋平はエレベーターで6階に上がった。廊下つたいに歩いていくと、部屋のいくつかに、テレビや新聞などメヂア関係者たちのネームプレートが目に付いた。窓越から眺める雪景色の中に、遠く新館の建物が、物静かに立っていた。
「こちらです。」
洋平が案内されたのは615号室の部屋だった。扉には通訳、木下洋平様と、書いてある。洋平は、なんだか自分がとても偉くなったような気がして嬉しくなった。早速、中に入ると、手前に広い和室が一つ。その向こう側にはベッドルーム。しかもツインである。作りこそ、それ程良くないものの、与えられた空間の広さに洋平は十分満足した。本部から送られた、通訳名簿に眼を通すと、自分以外は皆女性。
「まさか、誰かと同室・・・」
一瞬、脳裏に予期せぬ期待と恐れとが交錯したが、洋平はあわててそれを打ち消した。
「さてと、早速準備しなくては。」
生真面目な洋平は、持ち込んだ資料と書類の束を和室のテーブルに並べて整理し始めた。前もって送っておいた下着や洋服を確かめ、最後に先程受付でもらったADカードを取り出した。
「さてと….これでよし。」
準備の整った、洋平は携帯電話を取り出し、現場担当者に連絡を取った。
「木下です。ただ今到着しました…はい。はあ、そうですか。わかりました。」
担当者によれば、今日は、移動日なので、一日ゆっくりして良いとのこと。後に、到着する他の通訳者と一緒に、自分等の担当する会場のアリーナを見て置くように、とのことだった。
洋平は、うっすらと、冬の薄日が差す、ベッドに横になった。ほのかに温かな日ざしに包まれながら、懐かしい妻の顔を浮かべるうちにうとうと、眠りに落ちた。
ふと、目が覚めて、時計を見ると4時半を過ぎていた。
ベッドから起きて、ADカードを取り、コートを羽織った。
「忘れ物はないな。」
携帯電話と手帳を確かめ、ドアーのところに向った。廊下を通り、エレベーターのところにやってきて階下のボタンを押そうとしたその時、後ろから女性の声がした。
プロローグ
ここは沖縄。青い海の広がるチュラさんの島。洋平は妻頼子と久しぶりの休暇を過ごしていた。沖縄は彼女と学生時代初めて一緒に旅したところでもあった。今度の青森での仕事を控え、すこし、鋭気を養おうという思惑もあった。
洋平は、ホテルの隣のサイクリングショップで自転車を借りると軽快に青い海の広がる景色を背中に、風を切って二輪車を走らせていた。
「さすがは沖縄、景色も空気もさわやかだ…」
そう思いながら、ホテル周辺のサイクリングコースを回っていると、今晩、自分等が
宿泊予定の部屋の前に、妻の頼子が立っているのが見えた。
「よし、ひとつ俺の精悍な走りをみせてやる。」
洋平はそう思い、アスファルトの道路から芝生を横切り、土手を下って彼女のところに駆け寄ろうとした。その時、部屋の敷地の手前に小さなくぼみが見えた。わずかに水が流れる小川の様だった…
「よーし、こんなもの…飛び越えてやる。」
そう思った洋平は、くぼみに向かってスピードを上げた。手前で前車輪を上げて、乗り越えようとの魂胆だ。妻、頼子はそれを見守りながら、僅かに、不安がよぎった。
あっという間もないことだった!
「あ、あああああー!!」
見事に上げようと思った前車輪は洋平の思惑とはまったく別に、低空飛行のまま、反対側の土手に激突、洋平はそのまま自転車とともに一回転した。しかも頭から着地…妻が目の前で見ている間の出来事だった。
「い、いたたたー!」
顔面を芝生に埋めたまま、体を動かすことができない洋平。左の肩から腕に異様な痛みが走った。
ホテルの一室からあわてて二三人の男が駆け寄ってきた。
「い、いかん。すぐ救急車。君は動かないで!」
そう言って、亀のように這いつくばいながらも、尚、もがいている洋平を制した。
「い、いたたた―。これはやばい!」
頼子がゆっくりと洋平のところにやって来た。
「すみません。ご迷惑をおかけして。どちらの方で。」
そう聞くと、
「僕たちはこの島の医師です。ちょうど今日滞在する予定でした。でも専門は内科なので、彼をすぐに病院に連れていってください。動かさないほうがいい。」
そう言った。
救急車のサイレンが慌ただしく鳴り響き、ホテルの敷地に駆けつけた。洋平は島の診療所でレントゲンを取った後、ヘリで隣島の病院へ搬送された。そして、そのまま絶対安静で一週間を過ごすこととなった。沖縄に着いてから僅か3時間あまりの出来事だった…
駅のホームで旅行かばんを手渡しながら、頼子が言った。
「あなた、大丈夫。気をつけてくださいね。変なまねはしないこと。ちゃんと通訳だけやっていれば良いのですからね。先生も座っての仕事なら多分大丈夫でしょう。でも絶対に無理はしないように。そう仰っていましたわ。」
「うん。わかった。心配ない。ちゃんと大人しくしているから…」
ゆっくりと、かばんを受け取りながら洋平は答えた。首には青色のプロテクターがしっかりと固定され、彼の安全を守っていた。冬装備のコートの下にはめられたプロテクターは、いかにも窮屈そうで、洋平の体の動きはぎこちなかった。
「まあ、のんびり温泉にでも浸かっているさ。せっかくの東北の仕事だから…」
洋平はフリーの通訳である。普段は英語を教える傍ら、時折舞い込む通訳の仕事があると、スケジュールを調整して、その間、業務に専念する。通訳と言えば、聞こえはいいが、見入りはそれ程良くない。しかも、常日頃から、仕事のための訓練は欠かせない。語学力はもちろんのこと、通訳としての、逐次、シャドウイング、そして同時通訳の練習など、好きでなくてはできない仕事である。それでもかれこれ十年余り、これをやっているのは、多少なりとも世の中からの独立が保てる仕事だからである。途中、中小の貿易会社、広告代理店やコンサルタント、果ては工場のラインや道路の旗振りまでやってみたが、結局、今の仕事に落ち着いた。おそらくは自分の天職なのだろう。近頃、そう思い始めていた。
このところスポーツ関連の仕事が多くなってきた。折りしも、二月下旬から青森県で、女子アスホッケイなどの冬季オリンピックが開催されることになった。そこで二週間ほど、滞在しての業務だった。
「あなた、行ってらっしゃい。お土産、待っていますからね。気をつけて。」
妻がそう見送った。
「いつも心配ばかりかけている….」
そう思いながら、列車の窓から、ホームでいつまでも手を振る頼子の様子を眺めていた。それほど、収入の多くない生活を頼子は黙って支え続けた。次第に彼女の姿が小さくなって行く。それでも彼女はまだ、手を振り続けていた。
洋平は首を固定したまま、移り変わる外の景色を眺めた。東京駅で東北新幹線に乗り換えると、洋平を乗せた八戸行き特急「はやて」は、一気に速度を増した。あたりの景色が次第に白く変わって行く…
その間を列車はまるで跳び越すように、一路、青森へと向かって行った。
第一章 雪国
ホールを抜けて第一ホテルに向かう。両脇に並ぶガラス張りのショーウインドウには宗形志功の版画や著名な作家の書などが飾られていた。東北の田舎ながら、人目で由緒あるホテルだとわかる装飾だった。洋平はエレベーターで6階に上がった。廊下つたいに歩いていくと、部屋のいくつかに、テレビや新聞などメヂア関係者たちのネームプレートが目に付いた。窓越から眺める雪景色の中に、遠く新館の建物が、物静かに立っていた。
「こちらです。」
洋平が案内されたのは615号室の部屋だった。扉には通訳、木下洋平様と、書いてある。洋平は、なんだか自分がとても偉くなったような気がして嬉しくなった。早速、中に入ると、手前に広い和室が一つ。その向こう側にはベッドルーム。しかもツインである。作りこそ、それ程良くないものの、与えられた空間の広さに洋平は十分満足した。本部から送られた、通訳名簿に眼を通すと、自分以外は皆女性。
「まさか、誰かと同室・・・」
一瞬、脳裏に予期せぬ期待と恐れとが交錯したが、洋平はあわててそれを打ち消した。
「さてと、早速準備しなくては。」
生真面目な洋平は、持ち込んだ資料と書類の束を和室のテーブルに並べて整理し始めた。前もって送っておいた下着や洋服を確かめ、最後に先程受付でもらったADカードを取り出した。
「さてと….これでよし。」
準備の整った、洋平は携帯電話を取り出し、現場担当者に連絡を取った。
「木下です。ただ今到着しました…はい。はあ、そうですか。わかりました。」
担当者によれば、今日は、移動日なので、一日ゆっくりして良いとのこと。後に、到着する他の通訳者と一緒に、自分等の担当する会場のアリーナを見て置くように、とのことだった。
洋平は、うっすらと、冬の薄日が差す、ベッドに横になった。ほのかに温かな日ざしに包まれながら、懐かしい妻の顔を浮かべるうちにうとうと、眠りに落ちた。
ふと、目が覚めて、時計を見ると4時半を過ぎていた。
ベッドから起きて、ADカードを取り、コートを羽織った。
「忘れ物はないな。」
携帯電話と手帳を確かめ、ドアーのところに向った。廊下を通り、エレベーターのところにやってきて階下のボタンを押そうとしたその時、後ろから女性の声がした。