プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第八章】
「性に合った習慣を変えたくないのはわかるけど、パスクの食べ物は養分が不足しているんだ。わかってくれよ」
「……」
ヒースさんは目を閉じました。
「母さん!」
私はマーロウさんの肩に手をやり、言いました。
「ヒースさんは、何よりも自分の信念を曲げられるのが一番不幸だと思っています」
「……」
ヒースさんは目を開けると、私を見てゆっくりとうなずきました。
マーロウさんは片膝をつき、母親の手を取りました。
「お願いだ。先生たちの言うことを聞いて母さんが治ってくれないと、土が良くないって村人に教えることができないんだ。そして、このまま……」
言い渋る若者。
見かねて、アルパイさんが言葉を継ぎました。
「このままだと、そう遠くないうちにパスクは滅びますよ」
「!」
ヒースさんは目をかっと開きました。
「パスクの土は孤立していて、養分がどこからも入ってこない。放っておけば、さらに土地が痩せて、村人全員が同じ症状に陥るでしょう」
「……」
ヒースさんは伏し目になりました。
「あなたが実証に協力してくれるというなら、私がウォールズ政府かヤーバ大学に働きかけて、肥えた土を調達しましょう」
マーロウさんは髭先生に食ってかかりました。
「そんな! 重病人にパスクの運命を負わせるつもりなんですか?」
「……」
ヒースさんは指先で私を手招きしました。
近寄ると、今度は私の手のひらを指し、差し出すと、そこに震える指で文字を書きはじめました。
私は咳払いして言いました。
「代弁させていただきます。『私の負けです。パスクに育てられた私には、村を守る責任があります。あなた方にすべてを委ねます』……と」
第五十七話 川下りと三途の川
新暦二〇五年 夏
三ヶ月の間、食事の量を増やし、水分摂取を減らしていった結果、ヒースさんはなんとか立ち上がって、話すことができるようにまで回復しました。
パスクの人々はその事実を受け、アルパイさん他ヤーバ大学の学者を中心に、土壌改善の話を進めていきました。
高地パスクの夏は短いと聞きます。雪が降ってくる前にパスクを越えて東国カスターランドへ下りないと、また半年待つことになってしまいます。故郷エルダーを離れてもう四年。それに海賊の妹プリムローズさんの受験結果も気になります。
私はすぐにパスクを出ることにしました。
パスク地方からカスターランドへ渡るには、集落のある山々から少し外れた『十番地』という山の中腹から、ホーソーン川を丸木舟(カヌー)で下って行かなくてはなりません。
マーロウさんは風車リフトで働く一方、パスク山脈の登山道の整備や、山を越えて東国へ渡る旅人のガイドもしていました。
私はマーロウさんにお願いして、一緒に渓流を下り、ホーソーン川の河口、つまりカスターランド南部地方まで行くことになりました。
私とマーロウさんは、パスクの中心〇番地から恐怖のスライダーで空中を突っ切ると、鉄塔とガレ場があるだけの十番地に降り立ちました。辺りに人家や畑はなく、高地のせいで木も生えていないため、荒涼とした山肌が広がっています。
ガレ場の果てに草深い登山道を見つけ、坂道を下りていくと、小さな滝が現れました。東の海へ注ぐ大河、ホーソーン川の源流です。
川沿いに道を下り、第二第三の滝を通り過ぎると、川の流れが急に緩やかになりました。
疎らに生えた木々の間に沼が広がっています。ホーソーン川の源流はいったんこの沼に注ぎ、別の口から再び下っていました。沼の畔にはレンガ造りの物置小屋があり、中には二人乗りのカヌーが一艇収まっていました。
マーロウさんはカヌーを沼に浮かべると、言いました。
「この先は急流が少ないので、僕がついていれば転覆の心配はありません。でも、下流まで行ったら気をつけてください。熱帯雨林(サグワーロ)の東の端を通ります」
「そこはたしか……」
「原住民、ホック族の縄張りです」
私はコーカスでのパイさんの話を思い出しました。
「彼らは余所者を受け入れないのでは?」
「原則はそうですが、僕らパスクの民は彼らにとって特別な存在なので、同行していれば狙われることはありません」
ホック族に恵みをもたらすホーソーン川の源は、パスクの山々にあります。彼らにとってパスク人は、大切な水源を守っている、水の神様というわけです。
カヌーに乗った二人は、沼から溢れだす川のつづきを、滑るように下っていきました。
渓流を下って三日目の午後。
川幅が広がりカヌーの進みが緩やかになると、河原の左右に熱帯雨林サグワーロの木々が見えはじめました。
山にはなかった蒸し暑さ。低地まで下りてきたことを実感します。
サグワーロに入ったら、危険なのは原住民だけではありません。密林に潜む毒蛇や浅瀬のワニに襲われないよう、舟は岸から離れた川の真ん中を進まねばなりませんでした。
今日は早朝に岸を出てから、一度も休憩を取っていません。
私はお腹の下を押さえて、もぞもぞしていました。
「どうしました?」
マーロウさんが櫂を止めて言いました。
「その……ちょっと岸辺でお休みをいただきたいかなと」
「困りましたね。出発するとき言ったように……」
「わかってます。危ないのは、わかってますけど……」
こんなところで漏らすくらいなら、ワニに食われて死んだ方がマシです。
マーロウさんは私の怪しげな手つきを見て、やっと気づいたのか、自分の頭を小突きました。
「申し訳ない。男の客しかガイドしたことがなかったもので。すぐに寄せましょう」
マーロウさんは、力強く櫂をまわして河原の湿地に舟をつけました。
私はカヌーを下りると、泥に足をとられながら、獣の気配がしない茂みを探しました。
事が済んで、舟に戻ろうと立ち上がったとき……。
マーロウさんが叫びました。
「危ない! 伏せて!」
私は彼の声ではなく、視線に反応して、ふり返ろうとしました。
「うっ!?」
右肩に激痛。
体じゅうにしびれが走り、意識が遠のいていきました。
……私は一人、カヌーに乗って、大きな川を横切ろうとしていました。
あれ? マーロウさんはどこでしょう?
それに、ここは土色をしたホーソーン川の下流ではなく、水晶のように透きとおった清流です。
私は難なく川を渡りきり、向こう岸に下りようとしました。
すると、岸辺の大樹の陰から、黒衣を着た一人の女が現れ、私に言いました。
「こんなところで何をしているのです」
黒衣の女はフードをかぶっていて、顔がよく見えません。
「何をって……故郷へ帰るために、川を渡ってきました」
「あなたがここへ帰るのは、まだ何十年も先の話です」
「そ、そんな……私は早く旅を終えて、癒術学校に戻らねばなりません」
「何のために? あなたはもう、資格など単なる肩書きにすぎないと、学んだではないですか」
「どうしても会って、大事なことを伝えておきたい人がいるのです」
「なるほど、そういうことなら寄り道も仕方ありませんね。でも、あなたの旅は、今生の目的を果たすまで終わることはありません。それだけは覚えておきなさい」
「私はここエルダーで、正式な癒師として働くのではないのですか?」
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第八章】 作家名:あずまや