復興した国
足の裏からでも錆びた床が軋み、僕の総重量分だけ僅かながら凹むのが認識できた。一歩を踏み出しゆっくりと―――まるで足が床と一体化するように―――、時間をかけながら僕自身の重みを脆い鉄板へと伝えていく。滑るように踏み出した一歩は衝撃を最小限にする。そして僕は、次の一歩が床を離れる時に一番恐怖と対峙する。足が離れるその瞬間、重さはもう一方の足の裏に全てかかる。わずか縦28センチ横12センチ四方の所に、僕の体重、濡れた衣服や装備の重量とそれに応じた圧力が加わることになるのだ。モーターサイクルを手で押しているので僅かながら軽減しているだろうが、それでも錆び付いた鉄板を凹ませ、あるいは底抜けするのには十分すぎるほどの圧迫が加えられているに違いない。足をなるべく空中に浮遊させず、かつ板を踏み込む時に衝撃を与えないようにする。早く足の裏を鉄板につけなければならないのに、ゆっくりと馴染むようにして衝撃を抑えながらつけなければならないというジレンマ。双方とも成り立たせなければ穴だらけの床は底抜けする。いや、そうしなければ死ぬという恐怖観念が僕を取り巻いていた。もし床抜けが起きても、兄さんは助けることができない。こちらに駆け寄ることもできず、まして持ち上げようとすれば兄さんの足場も崩れかねない。錆の状態や穴のあき具合を見た限り、片足が抜ければ、バランスが崩れて倒れた時の衝撃でさらに抜け落ちる可能性が3割、それで抜けなくとも這い上がる時の重さや圧力で抜け落ちる可能性が6割強。落ちてしまえばあの濁流に飲まれ、上も下も見えない状況の中、茶色く澱んだ水が口から流れ込み、流木に体を串刺しにされ、肺の圧迫と息苦しさを極限まで味わって死んでいく、まして自分の亡骸は誰にも見つけられることのないまま土砂の中に埋もれていくという恐怖に、無理にでもジレンマを超えなければならないという意志、生きたいという本能が対峙する。
一歩一歩を正確に積み上げる。
単純な作業を繰り返していくのと同じだ。けれどそこには油断や余裕が生じてはならない。僕は自分の次に踏み出す一歩先とモーターサイクルの前の床の状態を見て、小さいながら確実な一歩を遂げることだけに全身の神経と感覚を集中させる。するとやがて何も感じなくなくなる。あれだけ激しい雨も(実際は降っているのに)止んでしまったように聞こえない。濁流が橋脚にぶつかって立てていた音も聞こえない。突き刺さる雨の痛みも、濡れた服の寒さも、頬や手足を雨水が伝っていくのも、あれだけ溜まっていた疲労も感じずに、体力・気力共に感じていた限界も今は忘れてしまっていた。そもそも音が、温度が、疲労がどうという以前に、それらのことを連想することもなかった。ただ必死に、一歩を刻むことしか考えられなかった。逆に、踏み込んだ時に押す感覚や床が軋む音など、一歩を遂げる間に起こる感覚が異常なほど鮮明になった。はっきりと、まるで肉を火で炙った時焦げ目が付くように、ある瞬間を境目にして突然浮き出てきたのだ。
気がつけば僕は橋を渡り終えていた。あっという間に渡った気がしたが、僕の中に残留している恐怖のせいか、終えてもなお手足は小刻みに震えていた。どっと、これまでどこかに忘れ去られていたものが一気に押し寄せてきて、そのあまりの衝撃に倒れ込んでしまった。支えを失ったモーターサイクルは水しぶきを立てながら横倒しになる。
石造りの道に尻餅をついた痛み、濡れた服の着心地と温度、突き刺すような雨の感触、濁流の轟き、体中から湧き出る疲労、高鳴る心臓、乱れる呼吸、解放感と安堵―――どれも自分が今、生きていることを実感させた。
気持ちが落ち着いてきた頃、兄さんが橋を渡り終えた。僕と同じように感覚がフラッシュバックしてきたのか、モーターサイクルを投げ出して尻餅をついた。
「はぁはぁ、なんとか渡りきったな」
「兄さん、遅いよ。僕よりも先に渡り始めたのに」
「バカ。お前はいつも大胆過ぎるんだよ。よくあんな橋を二足歩行できたな」
そう言う兄さんの足は膝から下にかけて錆がこびり付いている。革製の手袋も錆だらけだった。それは兄さんが膝と手の平を床につけて、まるで立つ前のように、橋を歩行したことを示していた。その方が床に接する面積が広くなるので、かかる圧力が二足歩行の場合より少なくなる。右手でモーターサイクルを押しながら左手と膝を鉄板につけた2本の足で引きずるように進んだのだ。もしモーターサイクルがなかったら、兄さんはきっとほふく前進で橋を渡ったことだろう。その方がさらに圧力を軽減できる。
必死のあまりいつの間にか追い抜かしていたのも、兄さんが圧力軽減を重点に置いていたことを踏まえれば納得した。
「僕にはあんなことできないよ。穴から下が見えて、…動けなくなる」
「ははは。俺より喧嘩強いくせにまだまだ子供だな」
「兄さんみたいにタフじゃないだけだよ」
「はいはい、そうですか。…それじゃ、行くか。国はもうすぐだ」
「うん」
いつまでも開放感と安堵で、気は抜いていられなかった。僕らは倒れたモーターサイクルを起こし、国の光を目印に再び歩き始めた。
30分ほど歩くと、10mはあろう巨大な城壁が見えてきた。目の前に来て、その見事な石造りに見蕩れていると、門の横にある扉から槍を携え、薄い鎧のような物を着た男が2人出てきた。頭に手を乗せて―――いざという時に背中に忍ばせている剣を振るえるようにして―――、旅人であることを門番と思わしき2人に伝えると、そのうちの1人が城壁の上にいる別の男に合図を送った。まもなくして石どうしが引きずられる音と共に城門が開く。それまで険しい表情をしていた男が笑顔を見せて、入るように僕らを促した。
部屋へと連れられていくつか書類を書き、入国審査を受ける。印の入った入国許可書を受け取り、審査は終了した。
正直なところ、城門を見かけた時から僕らは驚かされっぱなしだった。
秘境と呼ばれる場所にあるこの国を、僕らは安易に考えていた。だから城壁や番人の対応、しっかりとした入国審査に度肝を抜かれていたのである。ここまできちんとした対応をする国はそうない。それどころか旅人達や商人の間では入国審査の対応で国の治安が分かると言われているほどだ。失礼なのは承知だが、こんな険しい土地にある国でこれほど徹底した入国管理があるとは思っていなかった。
自分達の安易さに反省しつつかしこまっていると、入国管理をしている年輩の男が「エドガーさんとレオナルドさんは祭典に合わせてご来訪を?」と丁寧な口調で聞いてきた。
「いいえ。祭典って何のですか?」