プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第七章】
滝の真下には巨大な井戸のような穴があって、そこが人工の滝壺になっていました。滝壺の水たまりは溢れることなく一定の水位を保っています。今歩いてきた道の名前からして、地下水路の存在を匂わせていました。ペンステモン塔のまわりにある噴水とも何か関係があるのでしょう。
大地の広がりに突然終わりを告げる灰色の壁は、そのあまりの高さ故に、近づけば近づくほど、壁という概念が頭から離れていきました。どんなに巨大なものだって、てっぺんがあるからそれだとわかるんです。天空へ向かう垂直の大平面は、一年中途切れることがないという、不思議な綿雲の中に消えていました。街のほうが晴れていても、壁の下だけはずっと曇り空なのです。
私は壁の果てを探すのを諦め、ヒソップ博士の娘が住んでいるという、高層団地へ向かうことにしました。
地上三十階もある石壁の団地は、滝のすぐ右脇からずっとつづいていて、肉眼では向こう端が見えません。
私はヒソップ博士からいただいた紙切れを開きました。
「ええと、二八五六号室は……左端から五十六番目の窓があるところまで行って、第五階段口を見つけ、二十八階まで上……」
ついさっき、塔の三三三段の螺旋階段を上り下りしてきたばかりだというのに……。
私はその場にへたりこみました。
「はぁっ、はあっ、塔なんて、後に、すれば、よかった……」
階段というのは、どうやら俊敏に動くための筋肉を使うようです。ペースや歩き方を考えないと、少し上っただけで息が切れてしまいます。
中間点にあたる十五階には、ちょっとしたベランダがあり、風に当たって休憩できるようになっていました。ただ、ベランダは古代の石壁とちがって後から付けたものらしく、金属の枠がところどころ錆びていて、板の上を歩くたびにギシギシいって恐ろしいです。
立ったままで、廊下側に体重をかけながら休憩していると、上空で大きな鳥が旋回しているのが見えました。
「えっ? 翼の下に人が……」
よく見ると、三角に張った帆布のようなものに金属の手すりをつけた、不思議な乗り物でした。操縦しているのは十二、三歳の少年です。生まれて初めて見た、空を飛ぶ人間でした。
「こ、これってもしかして、大スクープなのでは……」
しかし、団地の窓からぽつぽつのぞいている顔に、驚きの色はありません。
飛行少年は、木の少ない北の湿原の方へ向かって、小さくなっていきました。
団地の住民であるヒソップ博士の娘さんなら、何か知っているかもしれない。急にやる気が出てきた私は、残りの十三階をひいひい言いながら上っていきました。
ドア枠らしき四角い穴には、『2856』とインクで書かれた、薄汚れたカーテンがかかっていました。肝心のドアはありません。廊下を見渡すと、どこの部屋も同じように無防備なものでした。
ノックしたい衝動をどうすればいいのかわからず、私は思わず口で言ってしまいました。
「コンコン……」
突然、顔から湯気が立つほどの恥ずかしさに襲われました。二つ隣の部屋のカーテンから、二つ結びの幼女が顔をのぞかせていたのです。
「こ、こんにちは」
幼女はさっと顔をひっこめ、「ママ! ママ!」と叫ぶ声が小さくなっていきました。
今、人を呼ばれると説明が面倒です。
私は声を張りました。
「ごめんください! ごめんくだ……」
カーテンの隙間から、さっと手がのびてきて、私の口もとを押さえました。
「近所迷惑」
「ふ、ふみまへん」
「コンコン……のときから玄関にいたんだけど、気づかなかったってことは、団地の人じゃないようね」
十歳くらいの色黒の少女が顔をのぞかせました。
カレンデュラ人の多くは黒髪で縮れているのですが、北国の血が混じっているのか、彼女はくすんだ金色の直毛でした。
「あ、あの、ヒソップ博士の娘さん、ですよね?」
「そうだけど? 父に会ったの?」
少女の顔が急に明るくなりました。
「ヤーバで伝染病が流行っていたときに、施術させていただきました。あ、でも初めて会ったのは、氷河航路を船で渡っているときでした」
「氷河航路! あんのバカ親父……」
少女はあきれ顔でため息をつきました。
「あたしパイ、中に入って」
ヒソップ博士の自宅は、広い部屋がどんと一つあるだけの単純な造りでした。元が古代都市の洞穴住宅ですから、仕方ないのかもしれません。
私はカレンデュラの風習に従い、玄関で靴と靴下を脱いで、素足で部屋をうろつきました。
滅多に帰ってこないという博士の陣地は、雑多な物置き場と化していました。その代わり、パイさんの居場所は学者ばりの立派な書斎です。彼女はまだ十歳だというのに、父親が持ってきた書物をすっかり理解していました。
「お父さんの仕事に興味あるんですか?」
私が言うと、パイさんは小さく首を傾げました。
「あたしが知りたいのは、壁のことだけ」
「壁について、何かわかりましたか?」
「白塔の展望所にある神話は読んだ?」
「はい、一応」
「この世とあの世の境目って話は、中世の頃に誰かがでっち上げたウソ。少なくとも壁の高さは有限で、向こうにも大陸が広がっていると、あたしは見ているの」
「こちらとは異なる国が、あるのですか?」
「向こうから誰か来たって記録がないから、それは行ってみないとわからない。人が住んでいるかもしれないし、悪魔だらけかもしれない。機械の帝国って可能性も否定できない」
「……」
作家のメリッサさんがパイさんの存在を知ったら、さぞかし喜んで取材攻めにすることでしょう。
「その話、俺も入れてくれ」
何の挨拶もなしに、色黒のほっそりした少年が部屋に入ってきました。何となく見覚えがある顔です。
私はハッと思い出して、彼を指さしました。
「あっ! あなたは、さっき空を飛んでいた人」
少年は照れくさそうに下を向きました。
「まだ飛んだとは言えないよ。空を滑って、ゆーっくり落ちただけさ」
少年の名はリンデ。博士が言っていたパイさんの幼なじみです。
パイさんは言いました。
「古代の記録の断片を拾っていくと、壁のどこかに、団地よりずっーと高い所に行ける通路があるらしいのよ。でも、わかってるのはそれだけ」
リンデ君は言いました。
「パイがさ、飛んでいって調べられれば楽なのにって、ある日言い出して、俺がかり出されたってワケ」
「飛行機の発明に失敗したときの言い訳でしょ? それ」
「うるさいなぁ。大きなことをやるには、動機付けってのが必要なんだよ」
「あたしが生きてるうちに、完成するんでしょうね?」
「俺が完成させる前に、謎を解きゃいいだろ?」
「なによ」
「なんだよ」
幼なじみの少女と少年はにらみ合いました。
「まあまあまあ!」
私は二人の間に割って入りました。
「自分の事が上手くいかなくて、イライラするのはわかります。でも、相手にそれをぶつけても、自分の内側(なか)にある問題は解決はできませんよ?」
二人はむすっとして、互いにそっぽを向きました。
論理的な学問に比べると、ちょっと難しかったようです。知的な話をしていても、精神や感情はまだ年相応なのです。
パイさんは拳を握ってつぶやきました。
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第七章】 作家名:あずまや