プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第七章】
ヨモは交通利便のためだけに作られた小さな集落でした。駅前に少し建物が並ぶだけで、あとは真っ平らな原野がどこまでも広がっています。
屋根とベンチがあるだけの寂しい駅構内を出ると、踏みならされた草地がありました。どうやら路線馬車が発着するスペースのようです。円い草地の真ん中に生えている巨木の下に、停留所らしき『雰囲気だけ』がありました。
私は五人の色黒の老男女についていって木陰に入ると、水筒の水をがぼがぼ口にし、岩塩のかけらをなめ、最南端へ行く馬車を待ちました。
癒師たる者、これしきのことでは長袖の黒衣は脱げません……というか、目下私は全身のあせもに悩まされていまして、脱いだら脱いだで、また伝染病かと騒ぎになりかねません。
色黒の老人たちは地元訛がひどく、何を言っているのかさっぱりわかりません。ときどき興味深げに話しかけてくるのですが、私は笑顔を作ってうなずくだけで精一杯でした。
やがて、原野の彼方から馬車らしきものが近づいてきました。
客車を引く馬には、二本の立派な角が生えていて……。
「えっ? 牛?」
大きな水牛一頭立ての牛車が、のろのろと巨木の下の停留所にやってきました。
ヨモ駅を出た牛車は、足場の悪い泥地帯を進んでいきました。
南へのびる牛車道。右手のほうは、海が近くて土に塩分が多いのか、草はあまり生えていません。一方、左手には背丈のある草地が広がっています。
地図を見ると、この辺りは、西の海に向かって箒状に広がる大河の下流域で、バジール湿原と書いてあります。
私は暑さに苦しみながらも、何もない静かな時間を楽しみました。
優雅な瞑想の旅は、はじめの一日だけでした。
ヨモからコーカスまでは牛車で五日かかるそうですが、途中に宿場は一つもありません。寝るときは、客車の中で座ったまま目を閉じるのです。
衣服が汗臭くなってくると、蚊がどんどん寄ってきて、かゆくて瞑想どころではありません。
イライラしだすと、湿原の単調さに退屈を感じてきました。すると、あれこれ考えはじめ、悲観的な思いにかられ、辛くなってきて、故郷のことがやたら頭に浮かぶようになりました。
「コーカスに寄ったら、エルダーへ帰ろう」
私は独りつぶやきました。
地図の上では、コーカスより南にはもう何もありません。
しかし、厳密に言うと『何か』があります。私が旅するアルニカ半島は『大陸』と通称するほど広大、といっても半島は半島ですから、理屈ではもっと大きな陸地とつながっているはずなのです。
超大陸があると考えられている部分には『未踏地』という文字以外、何も書かれていません。歴史が始まって以来、誰も到達した人がいないのです。
コーカスの南には由来のわからない長大な壁があって、そこが現在の世界の果てとされていました。一方、海に目を向けると、半島の西南は竜巻海流、東南には奈落海流と呼ばれる船の墓場があり、やはりその先に何があるのか知る人はいませんでした。
アルニカ半島の根元を横切る謎めいた遺跡『コーカスの壁』は、その麓にあたる土地のほとんどがサグワーロと呼ばれる熱帯雨林で塞がっていて、詳しい調査は行われていないようでした。
「壁の向こうには何があるんだろう?」
私はぼうっとした頭で考えようとして、ふと手元の水筒を見つめました。
それまでの考えはどこかへ行ってしまい、私は水をがぼがぼ飲み干しました。
今は渇いた喉を潤すことだけが、私の生き甲斐でした。
牛車は湿地帯を越えると、ぬかるんだ林道をしばらく行きました。
やがて、まっすぐな道の彼方に、大きな白塔が見えてきました。
塔の背景は雨雲のように灰色……なのに、真上を見ると痛いほどの晴天。
どういうことだろうと不思議がっているうち、牛車は終点のペンステモン広場に到着しました。
客車を下りた私は、白塔を囲む噴水池を見つけると、他の何にも目をくれず駆けていきました。
人目もはばからず、水場で髪を洗ってすっきりすると、ようやく視野が広がってきました。
雨雲のように見えていた塔の背景は、空ではなく、天空までつづく灰色の壁だったのです。
壁のてっぺんはどこにあるんだろうと見上げてみても、高い空の白雲が邪魔して、よくわかりません。
これが遺跡? 私には信じられませんでした。現代の人類の知恵をもってしても、自然の山より高い建物など、建てられるはずがありません。
私はコーカスの壁をもっとよく見たいと思い、ペンステモン塔に上ってみることにしました。
第五十話 白塔と若き探求者
ペンステモン塔の螺旋階段は三三三段もあり、最上階の展望所に着いたときには、旅疲れと汗のかきすぎが重なって、私の皮膚はお婆さんのようにシワシワになっていました。
展望所から見渡す古都コーカスは、一言でいうと城郭のない城下町です。西へ少し行くと海が広がっていて、北は湿地、東は熱帯雨林、そして南は巨大な壁と、これ以上ない天然の要害でした。ただ難があるとすれば、利用できる平地がとても狭いため、都市がこれ以上広がらないということでしょう。
展望所には、コーカスの街や壁についての案内板がいくつかありました。
コーカスは史上最古の都市といわれ、古代文明の一つに数えられています。当時の象形文字列の中にはすでに巨大壁の記述があり、壁の柔らかい部分に空けられた洞穴には、何千人もの下級市民が住んで……。
驚いた私は、欄干のところまで駆け戻り、コーカスの壁を見直しました。
目を凝らすと、下のほうに古い高層住宅のようなものが見えます。ヒソップ博士が言っていた不便な団地って、まさかあれのことでしょうか? 窓らしき穴の数を数えると、縦に三十ありました。横は数えきれません。
「さ、三十階建て……」
壁の広さ高さといい高層住宅といい、桁違いの事だらけで、私の頭は混乱していました。
神話のコーナーへ行くと、また別の記述がありました。
『地神(じがみ)の歯』の話。あそこに生えているのは壁などではなく、大地の神の歯である。天から降ってきた厄災を噛み切るためにある。
『防嵐(ぼうらん)の壁』の話。永遠なる豊穣の地を、南から迫り来る不毛の嵐から守るために、神々が壁を打ち立てたのだ。
『此岸と彼岸の境』の話。壁のように見えるあれは、この世とあの世の境目。生きているうちは、決してあちら側へ行ってはならない。特別な修行を積めば行けぬこともないが、人間にそれを叶えるだけの忍耐力はない。
神話は気まぐれな創作などではなく、必ず元になった事実がある。故郷エルダーではそう言われています。
コーカスの神話に興味を覚えた私は、ホームシックなど吹っ飛んでしまい、考古学者ヒソップ博士の帰りが待ち遠しくなりました。
おっと、その前に娘さん、でしたね。
ペンステモン塔を下りた私は、疲れも忘れて、コーカスの壁に通じる街道を歩いていきました。
『水路道(すいろみち)』と呼ばれる、生け垣で仕切られた専用歩道をしばらく行くと、大きな滝が近づいてきました。
滝はコーカスの壁の高い所にあいた穴から、直に水が飛び出しているように見えます。山も川もないというのに、あの大量の水はいったいどこからやってくるのでしょう。
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第七章】 作家名:あずまや