プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第四章】
「そうは……言ってません」
涙があふれ、靴がぽつぽつと濡れていきます。
「エルダーの聖人殿、五千の命を救う仕事をつづけても、よろしいかな?」
「……」
私は小さくうなずきました。
甲冑衆が霧の中へ消えていった後、私は強烈な使命感に襲われました。
人も獣も、誰も苦しまない方法が必ずある。私は今回の旅で、その光明をわずかでも見つけ出さなければならない。
蛇のいなくなったトンネルを抜けると、霧が急に晴れて青空が広がりました。
憂鬱なときの青色は、かえって気持ちが低迷します。
手綱を握るランサスさんは言いました。
「そう腐るなって。ほら、旅路の霧は吉事の兆し、って昔から言うだろ?」
「聞いたことありませんけど?」
「霧が下りるとせっかくの景色が見れなくてがっかりだが、その後は案外いい事があるのさ。俺の田舎に伝わる諺だ。たしか……そう、エキナスっていう女神が出てくる古い神話から取ったものだって、婆ちゃんが言ってたっけな」
「エキナス!?」
ランサスさんは驚いて、黒馬の長いたてがみに顔を突っこみました。
「ばっ、バカ! 急にでかい声だすなって!」
「す、すみません。その女神は、私たちの癒術の始祖なんですよ。実在した人です」
「そうかいそうかい。なら、なおさら聞き分けなきゃあな」
「エキナス様……」
私は古代の癒神の旅路に思いを馳せました。
深い瞑想に入ってしまったせいか、正気に戻ったときはもう夕方でした。
目の前に、赤く染まった湖が広がっています。
ランサスさんはため息をつくと、言いました。
「ったく、極楽の世界へ逝っちまったのかと思ったぜ」
「私、そんな顔してました?」
「ああ、イったときの顔だった」
男は悩ましげな顔をして背筋を反らせました。
「いやらしい嘘はやめてください」
「ちぇ、イジり甲斐のない女だな。で、そこにあるのがヤロ湖だ」
さざ波が押し寄せる浜辺には、銃を交差させた銅碑が立っていました。
「古戦場?」
「そうよ。ここは最後の大戦で、カスターランド軍の陽動部隊とウォールズの本隊が激突したところだ」
「陽動部隊の多くの兵士は敵の攻撃ではなく、逃げこんだ細道の、蛇や虫の毒で亡くなった」
「地元の奴でも忘れかかっていることを、よく知ってるな」
「ある方の前世を垣間見たときに知りました」
「へぇ、じゃあ俺の前世も見てくれるかい?」
「たぶん、あなたは前世療法中にカルマを解消し、その後改心して、裏稼業を辞めることになると思いますけど?」
「ゲッ! ならいいや」
私たちの契約はここまででしたが、ランサスさんはこの先にある『水晶の浜』まで、夜通しで私を送ってくれました。
水晶の浜といってもそれは昔の話。今では名前だけが残った、ただの白い砂浜でした。
明け方の薄明かりのもと、私は馬を下り、ランサスさんに別れを告げました。
彼はこの浜辺から湖に潜る予定。私はこの先につづく『水晶古道』を、二都山道と合流する地点目指して歩くつもりです。
日が昇ってきて、地図が見られるようになると、私は自分の甘さを呪いました。
ここから二都山道まで、二百マース(一マース=約一キロ)ですって? 標高差も中ぐらいの山一つ分はあります。
そのときふと、道脇の林の縁に、石造りの古びた小屋を見つけました。扉はなく中身は空で、遺跡化した中世の物置といった感じです。
難路だらけの山岳行に疲れていた私は、そこで一眠りすることにしました。
第三十五話 水龍現る
石小屋での仮眠から目覚めたとき、私は辺りの異変に気がつきました。眠りを妨げていた鳥や虫の声がしないのです。風も止んでいて、木の葉がかすれる音もありません。
小屋の外に出てみると、曇天の下に、宝石のように青く輝く湖が広がっていました。
目をこすったり、頬をつねったりしていると、遠くの方で叫び声が上がりました。
「ちくしょう! 放しやがれ!」
「ランサスさん?」
私は声がする方へ走りました。
ときどき男のもがく声が聞こえるのですが、浜辺や湖には誰もいません。
「こっちだこっち。上を見ろ」
顔を上げると、宙に浮いたまま身をよじるランサスさんの姿がありました。
「そ、そんなところで何をしてるんですかっ!」
「何をって、これが見えないのか?」
「これ?」
「水龍が俺をくわえているだろうが!」
「あ、そうか……」
私はまだ仕事のスイッチが入っておらず、目から入ってくる情報だけに頼っていました。誰かに施術をするつもりで、透視の力を使ってみます。
すると、ガラス細工のように透きとおった怪物の姿があらわになりました。長い首はまるで白鳥か鶴のようですが、顔は肉食の爬虫類。大昔に滅んだといわれる恐竜の想像画に少し似ています。
ランサスさんは今にも食べられてしまいそうです。
(そこの娘。お前には一度会った覚えがあるぞ)
水龍は心に直接話しかけてきました。
「あ、あの、私は初めてだと思うんですけど」
(無理もない。何千年も前の話だ)
前世の私のことを言っているのでしょうか?
水龍はランサスさんを砂浜に放り投げると、話をつづけました。
(湖の中の水晶は渡せん。これは、私が生き続けるための糧なのだ)
「奴と何を話してる?」
ランサスさんは肩を押さえながら私に言いました。
そのとき、圧縮されたイメージの塊が私の中に送られてきました。
内容を頭の中でまとめた私は、ランサスさんに言いました。
「水龍様は湖の中の水晶を食べることで、命をつないでいます。そうしなければ、この湖は干上がってしまうそうです。陸にあった分は採らせてやったけれど、もう人間に与える分はないのだと、言っています」
「その話を信じろってのかよ」
「私の癒術を信じたのなら、そうしてください」
「なんてこった……」
ランサスさんはうつむきました。
神秘の力を見せて脅かすことで、ヤロ水晶の乱獲を食い止めるのはいいとしても……私には疑問が一つありました。
「ヤロ湖はとても広くて深い湖です。でも、あなたの長い寿命の間に、いずれ水晶は尽きてしまうのではないでしょうか?」
水龍バーバ・ヤロは目を細め、笑ったような顔になりました。
(その心配は無用だ。今から二千年の後に、辺りの火山が大噴火して、地下深くに眠っていた水晶が湖に流れこんでくるのでな)
「だ、大噴火……そのとき人や動植物たちは大丈夫なのですか?」
(火山から噴き出した灰が数百年の間、天を覆うであろう。地上の生物の多くは滅ぶ。だが、一万年もすれば元通りになる。大したことではない)
「……」
私は背筋に冷たいものを感じ、震えていました。
「噴火がどうしたって?」
ランサスさんの問いに、私は聞いた通りのことを伝えました。
男はあきれ顔で砂の上に座りこみました。
「大したことないって……そりゃあ、神様スケールから見れば、人類が滅ぼうと何だろうと、どうってことないんだろうけどよ……」
水龍は話をつづけました。
(ただし、私がその日まで健在であればだ)
「どういうことですか?」
(湖に流れこんでくる川の一つが、ひどく汚(けが)れている。このままでは私の体は百年と保つまい。原因はその男が知っている)
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第四章】 作家名:あずまや