映し身人形
腕時計を忘れてきたため、時刻を確認するために携帯を開く。八時十分。新着メールはなし。そもそも、くだらないスパム以外届いた試しはない。
当然か。成章は片手で携帯を閉じた。
高校でもそうだ。
誰も彼もが、自分を有島成章ではなく、多芸多才の有島重工の跡取りとして見ている。
まさかコネ作りしか頭にないような奴ばかりというわけでもないのだろうが、それでも、どうしてそこまで頑張れるのか、などと聞かれることは、成章にとってこの上なく不快に思えた。
そして、彼らを徹底的に突き放してきた結果がこれだ。
自らが招いた孤独だった。
それでいいさ。成章は、横断歩道にて、赤く光る信号機を眺めながら思う。
どうせ、真に自分をわかってくれる奴には、一生出会えない。
このまま、孤独のまま死んでいくのだ……。
成章は、はっとした。
点滅する信号機から目を離したその瞬間、横断歩道の向こう側の女性と目が合ったのだ。
話したことはないが、少なからず見知った人と。
「あの人……」
父が、母と呼んでいるアンドロイドだった。
彼女が踵を返して逃げ出すのと同時に、信号機の色が青に変わった。
成章は走り出した。
理由は分からない。
ただ、なんとしても、彼女に追いつかなければならないという衝動に駆られて、成章は走り出した。
この横断歩道を渡った先が、成章の住む住宅街だ。
彼女は、入り組んだ路地を縦へ横へと駆け走っていった。成章を撒こうと必死なのだろうが、この住宅街の構造をよく知る成章にとっては無意味だった。
それと同時に、彼女は他の誰でもない自分から逃げている、という推測を確信に変えた。
そして、彼女が目の前の十字路を左折したとき、成章はしめた、と思った。その先は工事中。行き止まりだ。
続いて十字路を左に曲がった成章の目は、作業員たちを前に立ち尽くす彼女をとらえた。
ついに追いついたのだ。
ややあって、彼女は成章のほうに振り向き、そして、何もかも諦めたかのようにその場で膝をついた。
アスファルトの地面に、金属の音を響かせて。
「ここまで、ですか……」
彼女は初めて言葉を発した。
機械の体とは思えない、みずみずしい声だった。
その一方、ことここに至って、成章は思い悩んだ。
自分は彼女を捕まえて、それから、どうしたいのだろうか?
そもそも、なぜ彼女を追いかけたのだろうか?
親父の眼前に連れて行くため?
いや、違う。断じて違う。
「俺は敵じゃない」
成章は彼女の手を取った。
氷のように冷たい感覚が成章に伝わる。
「とりあえず、俺の家に行こう」
成章が腕に力をこめると、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「……ナリアキ」
「え……?」
「そう呼ぶよう、プログラムされています」
「やっぱり、親父の所から逃げ出してきたってわけか……」
成章はソファーに腰掛け、彼女と向かい合っていた。
「はい、そうです」
彼女は淡白に答えを返した。
「それにしても、よくあそこから逃げ出せたな」
「ミユキは交通事故で亡くなった……万が一にもそのようなことがないよう、私は身体能力を高められています。実験のために部屋から出た後、隙を見て窓を破り、最上階から飛び降りました」
「なら、俺に捕まったときも振り切れたはずだろ?」
「人を傷つけることは禁じられています」
どこかで聞いたことがあるな、と成章は納得した。
一呼吸置いてから本題を切り出す。
「俺は親父の研究のことはよく知らないけど、一体何をやってたんだ?」
「辰信さんは、私にミユキになれと、何度となく言いました」
「それで……?」
「私が間違えると、辰信さんは私を叩きました」
「なっ……」
成章は息を飲んだ。
「私は機械の体ですから、痛くはありません。けど、うまく言えませんが、私の中でもやもやしたものが渦巻いて……耐え切れなくなって逃げました」
「そ、それはいつからっ……?」
「私がそのようなもやもやを意識するようになってから、になりますが……三年と二十二日間です。それ以前は記録を行っていません。」
成章は無言だった。
だが、その中に、ふつふつと父への怒りをたぎらせていった。
(親父の野郎、とっくの昔に成功してたってのに……)
「やはり、私がいけないのでしょうか? 私がミユキになれず、途中で逃げ出してしまって……」
「そんなわけねえだろ……」
成章はつぶやいた。
「なんであんなクソ親父の言いなりにならなきゃいけないんだよ。君は母さんじゃないってのに」
「私が、ミユキじゃない……?」
「俺も同じだ。親父の気を引こうと、死ぬほど勉強して、スポーツもやって……けど、親父は俺の誕生日すら忘れちまったんだ。君を作るのに躍起になって……」
成章はうつむいて話し続ける。
「けど、あんな奴でも、あいつは親父だったんだよっ……。俺の、たった一人の……」
「ナリアキは私に会えて嬉しくはないのですか?」
彼女は聞く。
「俺の母さんはずっと前に死んだんだ。たとえ同じ顔でも、君を母さんとは呼べない」
彼女はいくぶん困惑したようだった。
成章にとっては当然のことだったのだが、彼女は辰信に教え込まれた人間関係を、成章本人に真っ向から否定されてしまったのだ。
「私は、どうすれば……」
「簡単なことだろ。つまり……」
その時、リビングにチャイムの音が鳴り響いた。
「もしや……」
成章は胸騒ぎを覚えた。
「ここで待っててくれ」
成章は玄関口へと向かって、ドアを開けた。
「父さん」
鞄をその手に下げ、辰信はドアの先で立っていた。玄関に入るなり、後ろ手でドアを閉める。
「先程、捜索に出ていた者から連絡が入った。お前が美由紀を捕獲したとな」
見られていたのか、と成章は苦々しく思う。
「さすがは我が子だ。さあ、早く美由紀を引き渡してくれ。今すぐさらなる改良を施さねばならん」
辰信は、さも当然のように要求する。
「それは、できない」
成章はきっぱりと断った。
「なぜだ?」
辰信は聞いた。
「美由紀はついに拒絶という感情を持ったのだ。そうして私の隙を突いて脱走した。このまま改良を続けていけば、彼女が蘇る日はそう遠くない」
成章は抑えていた怒りが再び燃え上がっていくのを感じた。本人の悪意のなさが、余計にそれを後押しした。
「ざけんじゃねぇ、クソ親父! ああまで追いつめといて、まだ分かんねえのかよ!」
突然の怒声に面をくらった辰信を置いて、成章はずかずかとリビングに向かった。
「行こう」
成章は彼女の手を取って言った。
「あの人が来ているのでしょう? 嫌です」
「だからこそだ。あいつには君の口から面と向かって言ってやらないと」
彼女はしぶしぶ立ち上がると、成章の後へついていった。
「おお、美由紀。さあ、こっちへ」
辰信は感嘆の声をあげると、その手をさしのべた。
「うう……」
彼女は成章の後ろに隠れた。
「彼女は、俺の母さんなんかじゃない」
「何を言う。彼女は正真正銘、お前の母で私の妻だ」
「現に嫌がってんじゃねえかっ!」
成章は再び叫んだ。
「君も父さんに何か言ってやれよ」
成章は彼女の方を向いていった。
「何かって……」