プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第二章(中)】
学びのためとはいえ、困っている人がそこにいるのに助けないなんて、どこかおかしい。私はそのときから、オークさんを送り出した癒術学校の方針に疑問を持つようになりました。
話はそこで途切れました。
さざ波の音が近い。浜辺はすぐそこのようです。
私はある衝動にかられました。
「少し、歩きませんか?」
「せっかくここまで来たんだ。コホシュ岬まで行ってみよう」
廃家から岬までは、砂浜を歩いて二時間くらいです。
身支度して家を出たときにはすでに夕暮れ、と思ったのですが、歩いても歩いても日が沈む気配がありません。極北地域は夏の間は『白夜』といって、夜がほとんどないのだとか。私は仮設診療所での仕事に疲れ、夕食の後はすぐに寝てしまっていたので今日まで気づきませんでした。
砂浜が終わって、緩やかに盛り上がった岩場へつづく坂をのぼり、低い崖の突端に出るまで、二人は何も語ることなく、薄暗い空の下を歩いていきました。
冷えた岩石がむき出しになった、苔一つ生えていない地面には『世界最北の地・コホシュ岬』の石碑が立っていました。あとは深い色の海があるだけで、他には何もありません。
地図上では、さらに北に『永久氷原』と呼ばれる白い大陸——浮島という説もあります——が北極まで広がっているとされていますが、ここからは見えません。
しばらく物思いにふけった後、私は話を切り出しました。
「オークさんは、なぜ私ばかり追いかけるんですか?」
長髪の男は微笑を浮かべて小さくうなずきました。
「なぜ、そう思う?」
「こんな地の果てまでやって来るような物好きは、私くらいのものでしょう?」
「そうでもないぞ」
オークさんは石碑の方へあごをしゃくりました。
私は石の表面に触れます。
「それじゃない。裏だ」
「裏? あっ」
最北を示す石碑の向こうにもう一つ、古びた石の柱がありました。表面が風雨に洗われてすり減っており、手前の石碑に比べるとかなりの年月が経っているように見えます。
石柱に何か文字が彫ってありますが、ぼやけていたり、知らない文字があったりして、解読できません。
「君なら読めるはずだ」
「そんなこと言われても……」
私、古文の成績はギリギリだったんですけど。
考えるのに疲れ、ぼーっとしてきたとき、突如として変化が起きました。石柱の謎の文字が宙に浮かび出し、私の心の奥に飛びこんできたのです。
「あ、読める。これは、エキ……ナス。ゆー、しー、んー、癒神エキナス!?」
「やはりな」
「何がやはりなんですか?」
「それは教えられない。私にその権限はないのでね」
神話によると、癒術の祖エキナスも、エルダー諸島に落ち着くまでは大陸各地を旅していた、とされています。でも、まさかこんな誰もいない地の果てまで来ていたとは……。
オークさんはつづけました。
「さっきの質問だが、私の主な任務は、新人癒師の尻拭いなどではない」
「では、何をしているんですか?」
「大陸には盗賊のような悪党や、婦女を付けまわす輩が多い。ちなみに君は、マグワート港を発ってから私に保護されるまで、九回狙われている」
「ええっ、そんなに!?」
「だが、ここまで来た以上、君を甘やかすのは今日が最後だ」
「それはどういう意味ですか?」
「自分で考えるんだな」
半人前の癒師を放ったらかしにするなんて……。私がまた事件でも起こしたら、彼の責任はどうなるのでしょう。いえ、ちょっと待ってください。先生がいつでも助けてくれると知っていたら、生徒は無謀と挑戦をいつまでも履き違えたままかもしれません。
「これからは、私の教師は私自身がつとめなければならない。そういうことですよね? オークさん?」
男の姿はどこにもありませんでした。
第十七話 氷河航路と特級僻地
新暦二〇二年 夏
ホースチェス港から岬をまわってアルニカ半島の西側に出る船便は、週に一度だけ。案内所で聞けば、今日はまさにその日だといいます。幸先がよさそうです。
窓口でチケットを買い、指定の桟橋で待っていると、白い貨客船が入ってきました。定員三十名と聞いていたので、漁船の延長かと思いきや、三本マストの立派な帆船でした。船が無駄に大きい気がするのは私だけでしょうか。
埠頭に積んであった貨物が運ばれていき、いよいよ乗船というとき、その謎が解けました。乗客が立ち入れる場所は、船尾の客室と、貨物と貨物の間にできたわずかなスペースだけ。要するに乗客はおまけです。
客室には座席も等級も存在しません。靴を脱ぎ、絨毯の上の好きなところに寝転がるだけ。絨毯はところどころすり切れていたり、タバコの灰に焼かれて黒ずんでいたり、砂が散っていたりと、ひどいものです。
目的地のマーシュ港までは二日間の道のり。ただでさえ酔いやすいというのに、こんなことでは先が思いやられます。そういえば酔い止めは……。
「しまった!」
私は客室を飛び出しました。
船はすでに縄を解かれ、桟橋を離れていました。
客室に戻り、靴を脱いで、私は絨毯の上にへたりこみました。
「ああ、どうしよう……」
地獄の二日間のはじまりです。
「まるでこの世の終わりみたいな顔してるね」
雑魚寝部屋の隅っこにいた中年の男が言いました。
カーキ色のベストに探検帽子という出で立ちで、肌は日焼けなのか地黒なのか、いずれにせよ北国出身の人ではなさそうです。
乗客は私と彼の二人だけでした。
「酔い止めを買い忘れてしまって……」
「わかるわかる。それがないと氷河航路は地獄だからね」
「氷河航路?」
男は立ち上がると、壁に貼ってあるボロボロの地図を指さしました。
「アルニカ半島の先端を走るラーチ山脈は、偏西風の影響を受けて、常に山の西側に大量の雪を降らせる。それがやがて氷河となり、長い年月をかけて海へ還っていく。このホースチェス・マーシュ航路は、氷の絶壁が海へ崩れ落ちるところが見られるので、有名なんだよ」
「は、はじめて知りました」
「ハッハッハ、有名というのは言い過ぎだった。知っているのはおそらく、地元の人と、我々学者くらいのものかな」
男はヒソップと名乗りました。ここよりはるか南、カレンデュラ国にあるヤーバ大学で講師をしているそうです。専門は考古学。
「ヤーバは知ってます。南の都ですよね」
「南国の一学者がこんな北の果てで、なに遊んでるんだって、今思ったでしょう?」
「い、いえ。まぁ多少……」
「僕の故郷にある古代遺跡に、おもしろい碑文があってね。それを刻んだ人は北の果ての岬から来たっていうんだ。で、一度見ておこうと思ったわけさ。残念ながら、大した発見はなかったけどね」
「……」
私の心臓は波打っていました。もしや、彼が追っているのは、癒神エキナスの足跡なのでしょうか。
「僕が標的にしている遺跡は、山のようにでかいくせに、手がかりは小石ほどもない。碑文の主も、謎を解く鍵の一つにすぎないんだ」
私はホッと胸をなでおろしました。歴史の謎が解明されていくのは歓迎すべきことなのに、なぜ安心したのか、自分でもよくわかりません。
「おっと、忘れるところだった。これをどうぞ」
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第二章(中)】 作家名:あずまや