プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第二章(前)】
首の骨が鳴ったかと思うと、私は後ろによろめき、机にしがみつこうと本能的に手をのばしました。その先にはアロマキャンドルの炎。
「熱っ!」
幸い転びはしなかったものの、私はたまらず冷やすものを探しました。
花瓶! 私が買ってきた赤い花々がさしてあります。
花の束を引き抜いて、手に水をかけようとしたときでした。
「いぎっ!」
そうだった。これはバラの変種で、トゲが……。
茎から手を放したとき、花瓶が傾いていることに気づきました。
「あっ!」
花瓶は足の甲を直撃。
私は痛めた足を、火傷したほうの手で握ってしまい、あちこち飛び跳ねた後、床に転がってじたばたしました。
ああもう、人生最悪の失態です。
「ヒッ、クッ……ヒハハハハ!」
笑い声に驚いて顔を上げると、ミルラさんがお腹を抱えている姿がありました。
「見たことない……そんなの見たことない!」
ミルラさんは小一時間ものあいだ、私の顔を見るたびに吹き出しました。
「そこまで笑わなくたって……」
なんだか、珍妙な生態で知られる動物になったような気分でした。
ミルラさんは部屋の明かりを消して寝床についてからも、ときどき思い出してはクスクス笑っていました。
広めのベッドなので、二人どうにか横になれます。
私はすぐ隣で眠れずにいました。
「もう、いい加減に……あれ?」
ミルラさんは目をつぶったまま笑っていたのです。
まさかと思って、彼女の額に手をかざそうとしましたが、ヒリヒリして瞑想に集中できません。
今日はもう無理か……そう思った数秒後、私の顔は枕に沈んでいました。
翌朝、私はミルラさんに揺り起こされました。
私は半分の目で、まわらない口をどうにか動かします。
「ほんなはやくらら、ろーしたんですか?」
「私やっぱり、ケーキ屋になることにしたわ」
「ら?」
「癒師のくせにだらしない顔ね。水でもかぶってきたら?」
洗面所の凍るような水で顔を洗ってから部屋に戻り、改めて質問しました。
私の耳は正常でした。
「あの、すぐにでも診させてください」
透視の結果、ミルラさんを包んでいるエネルギーは鮮やかな色を取り戻しつつありました。
「信じられない」
連日にわたる渾身の施術をもってしても岩のごとく変わらなかったのに、たった一晩で何が起きたというのでしょう。
「昨日ね、久しぶりに夢を見たの。ケーキ屋のパティシエ兼社長になったのが一つ。あと、光の中から男でも女でもない声がして『君の恩人は真実を一つ取り戻した』と言ってたわ」
「取り戻した?」
どういう意味でしょうか。ともかく、これまでと何が違っていたのか、どんなに考えてみても、あのドジな一件しか浮かんできません。
「ま、とにかくそういうことだから」
いきなりの解決にとまどいつつも、私は話をつづけました。
「でも、ご両親との関係を直さないことには……」
「いつだったか、全寮制の中学に行く気はないか、って言ってたわよね?」
「それは……」
ミルラさんを二人と引き離すのは、最後の手段だと考えていました。
「私の成績なら奨学金が出る。タダだったら私が何しようと、あの人たち文句は言わないわ」
「……」
あの人たち……か。
ミルラさんの自発性を曇らせたくなかった私は、ひとまず契約が終わったということで、この家から出ていくことにしました。いつの日か真の癒師になったとき、また様子を見に来たいと思います。
私はミルラさんの両親に宛てた手紙を書き、机の上の癒術書をトランクにしまうと、黒衣の上に黒のコートを着ました。
念のため財布の中身をたしかめます。
「うっ!」
「どうしたの?」
ミルラさんは背伸びして財布を覗きこみます。
「旅費が……底をつきました」
日々の出費はランチ代だけと思って油断していました。塵も積もればというやつです。
そんなそんなそんな、まだ行程の半分も行ってないのに!
「春までいたって、別に構わないけど?」
「いえ、対価のない滞在は旅癒師の掟に反しますので……」
「でも、文無しでこれからどこへ行けるっていうの?」
ミルラさんの言う通り、馬車代も残っていないようでは、この街から出る事もままなりません。
「せめてクレインズの都心まで行くことができれば、なにかアルバイトを……」
「バイトしたいなら、当てがあるわ。ついてきて」
「え? あ、ちょっ……」
ミルラさんは有無を言わさず私を外に連れ出しました。
私たちは馬車道に出て、川沿いを少し歩き、橋を渡ってすぐそこにある『オーキッド』という名の丸太造りのカフェの前で立ち止まりました。まわりに他の建物はありません。行き先のわからない林道がつづき、枯れ野原が広がっているだけです。
「厳しい人だけど、今人手が足りてないから、見る目が甘くなってると思う」
「……」
私は生唾を飲みこみました。お皿を割るたびに体罰があったらどうしよう。
ぐずぐずしている私を見て、ミルラさんはさっとドアを開けました。
しまったと思ったときは、すでに手を引かれて店の中でした。
「あら! 久しぶりじゃない」
赤毛の若い婦人が、カウンターの向こうで皿をふいています。肌は少し色があって、北国出身の人ではないと一目でわかります。店は朝開いたばかりのためか、お客は誰もいません。
「復活したから。もう心配ないわ」
ミルラさんはもじもじしています。きっと、照れくさいのでしょう。
「その人は?」
「人手が欲しいんでしょ? 来年の春までだけど」
店主の名はドゥレヤさん。数年前にこの地に嫁いできた人です。でも、今年の春、前店主の夫がお客の女性と駆け落ちしてしまったため、今は一人で店を守っている身なのでした。ちなみに子供はいません。
ミルラさんは、私のお尻を小突きました。
自己紹介は終わったのですが、まだ自分から雇ってくださいとは言っていません。
「心の準備がまだ……」
私はミルラさんと密談をはじめました。
「明日のパンも買えない人が、何言ってるのよ」
「で、でも、厳しいって……」
「今のあなたに選ぶ余地はないのっ」
ドゥレヤさんは流しで手を洗いながらクスクス笑っています。
「なるほどね。採用決定。部屋はヤニくさいけど書斎を使って」
「え?」
私は耳を疑いました。今の醜態は見ていたはずですが……。
「じゃ、私、学校あるから。すごい遅刻だけど」
ミルラさんは走って店を出ていきました。
「あ、待っ……」
本職じゃないところで、いきなり二人きりなんて。どうしよう。
「なぁに? 人見知りなの?」
ドゥレヤさんはカウンターに肘をついて、私を眺めています。
図星です。態度に出ちゃってるんでしょうか?
「患者さんが相手のときはそうでもないんですが、それ以外だと、ちょっと……」
「料理は?」
「全寮制学校で五年間自炊していたので、それなりには……」
「厨房に置いておくには惜しいわねぇ」ドゥレヤさんは私の顔をまじまじと見つめます。「バカな男がほいほい金落としてってくれると助かるんだけど」
「な、なにをおっしゃいます。マスターのほうが全然美人だし……」
「お世辞を言っても時給は上がらないよ」
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第二章(前)】 作家名:あずまや