プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第一章(後)】
カスターランドに夏が訪れようとしていました。
首都ジンセンでの暮らしはもう三ヶ月。それでいて、たった一人しか癒してあげられなかった。認めたくはないですが、大都会での活動は、私には早すぎたのかもしれません。
下宿の居間で、朝の食事している最中、私は北へ旅立つことを告げました。
「ふぅん、いいんじゃない?」
ピオニー先輩はトーストを口にしたまま新聞を広げています。
いつものことなので、私は気にしていません。むしろその方が、別れが辛くならなくていいのです。
私はため息をつきました。
「なぁに、寂しいっての?」
先輩はページをめくります。
「先輩がうらやましいです」
「あげないわよ」
「は?」
「あたしのだから」
「いえ、彼氏さんのことでは……」
彼氏といえば、ピオニー先輩が外泊から帰ってくるとき、なぜか消毒剤の臭いがうっすらしているのが気になっていました。もう出ていくのだから、今日こそ聞いてやろう。そう思ったときでした。
広げていた新聞を、先輩が半分にたたむと、新たな見出しがこちらに現れました。
『奇跡の新薬。黒血病はもはや、不治の病ではなくなった』
私は記事の内容に言葉を失いました。この間、施術をしたモネさんの主治医が使っていた薬のことが載っています。治った例だけが並んでいて、薬が害を起こし命を奪いそうになったことはどこにも書かれていません。私が診察した限りでは、薬が放(はな)っていた灰色の霧は邪悪なもので、むしろ後者の方が多いはずなのです。
私はたまらず口を開きました。
「もともと不治なんかじゃないのに……」
「なんですって?」
ピオニー先輩は新聞を下ろしました。
私は記事のことを指摘します。
「ジンセンの医者には関わるな、ってさんざん言われなかった?」
「彼らは人間が作った薬が完全とはほど遠いことを、何もわかっていない」
「で、どうするつもり?」
先輩は楽しげに言いました。
私はイスから立ち上がりました。
「私服を貸してください」
先輩は表情を変えずにクローゼットへ足を向け、彼女にしては地味めな服を持ってきました。
「後悔することになるわよ?」
「まるで、はじめから結果がわかってるみたいな言い方ですね」
「あんたの目の前に立ってる女が、その結果よ」
ピオニー先輩は寂しげに笑いました。
失敗の果てにあるのが、愛欲に溺れること? 意味がよくわかりません。
「交渉相手が違えば、結果も違うかもしれませんよ」
「だといいわね」
私は黒衣を脱ぎ、故郷では絶対着られないような横縞模様の半袖ワンピースに着替えました。横縞はエルダー諸島では囚人を意味するのです。敵地へ出陣する可愛い後輩に、わざわざこんな不吉なものを持ってくるなんて……そういうところは学校にいた頃と全然変わってません。
私は下宿を出ると病院通りを東へ行き、入院患者の見舞い人のフリをしてジンセン大学病院に潜入しました。
病棟の廊下を一通り歩いてわかったことは、合成薬の邪悪な波動、あの灰色の霧がそこらじゅうに渦巻いているということです。
二周目、勇気を出して入院患者の皆さんに薬害の真実を伝えるつもりでした。ところが、詰め所に鎮座していた婦長に睨まれてしまい、仕方なく受付前の待合席へ戻ってきました。
密偵のようにこそこそかぎ回るのは卑怯だと、見えざる力が働いているのでしょうか。科学医療教の信者を改心させることができても、教祖たる医者が薬の乱用をやめなければ、被害者は減りません。
どうやら直接対決しか道はないようです。
彼らは便利な科学に目がくらんで、代々受け継いできた真実を忘れてしまっただけ。話せばちゃんとわかるはず。そう信じて私は、今度は外来患者のフリをして、内科の一番偉い医師のところへ行くことにしました。
「プラムさん、どうぞ」
診察室から若いナースの声。廊下のベンチで二時間待った末、ようやく声がかかりました。
私は中に入って、背もたれの低いイスに腰かけます。
白衣を着た白髪の男が、べっ甲メガネのふちに手をやりました。
見た目は外に出たがらず食の細い、学者風の老人。ただ、向かって左手、彼の右の顔が、青白く膨らんだように見えます。見ようとしなくても、エネルギーが高すぎて見えてしまうのです。ここまではっきりわかるのはとても賢い人の証拠です。世の中を動かす素質がある。でも、今はまだ頭の片側しか使っていません。
大陸の中でも指折りのジンセン大学病院。その内科部長ブレス医師。彼を動かすことができれば、医療界は変わるかもしれない。
「今日はどうしました?」
ブレス医師は微笑み一つ浮かべず、物を見るような目で言いました。
「実は、お話があって来ました」
「話? 心の問題ということなら、科をお間違えになったのでしょう。精神科は四階の……」
「私は黒血病の真相を知っています。今朝の新聞記事、あれは氷山の一角にすぎません。海の下に何が広がっているか、ご存知ですか?」
ブレス医師は手振りでナースに何か伝えています。
すぐさま部屋のドアが閉じられました。
医師はあごの下に手を組むと、上目遣いで私を睨みつけました。
「君はいったい、何者なんだ?」
「その前に聞かせてください。例の新薬が、患者の回復の可能性をかえって低めていることを、ご存知ですか?」
医師は鼻を鳴らしました。
「バカな。あれは世紀の発明だ。現に私もその薬で何十人と救ってきた」
「それ以上に、亡くなった方がいるはずです」
「病院に来るのが遅れたか、でなければ、薬が体質に合わなかった。乱暴な言い方をすれば、要するに運がなかったのだ」
私は立ち上がって、両拳を握りしめました。
「効果が低かった人でも、治るはずと服用をつづけさせて、最後は死なせてしまった。違いますか?」
「何を根拠にそんなことを言う!」
ブレス医師も立ち上がりました。
「私は余命一週間と診断された患者を一人、癒して差し上げました」
「癒した……なるほど、そういうことか」
ブレス医師は私の顔を見て低く笑うと、机の上にあった紙切れに何かを走り書きしました。
メモを受け取ったナースは、そそくさと部屋の奥のドアを開け、別室に姿を消しました。
「かけたまえ。本当のことを話そう」
ブレス医師は伝統的な民間療法に明るく、昔から伝わる黒血病の正しい治療方法のことも知っていました。一方、彼が医師になった四十年前には、すでに薬を使う方法が主流でした。
「多くの医者は古い伝統を否定しているが、地方出身だった私はそうは思わなかった。だが……本当に正しい方法を教えれば病院はどうなる」
薬による収入が減り、患者も療養のため田舎へ流出します。
「でも、それは黒血病に限ってのことで……」
「同じだよ。私が科学バカじゃないことは、さっき話したろう? 多くの病気は同じ方法で改善する。君ならそのくらい知っているはずだ。違うかね? エルダーの癒師よ」
「!」私は顔がこわばりました。「そこまでわかっていながら、よくも……」
「想像してみたまえ。もし究極の方法が見つかり、病人がこの世からいなくなってしまったら、どうなる?」
「……」
医師も癒師も、食べていけなくなります。
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第一章(後)】 作家名:あずまや