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プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第一章(前)】

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 私はうなずきながら、屋上デッキへ歩み出ました。
 先ほどお世話になりかけた若紳士が駆け寄ってきます。
「顔色よくなったようだけど、一応渡しておくよ」
 酔い止め入りの包み紙を手にした私は、一気に血の気が引きました。
 せめて初仕事の余韻に浸っている間だけは、忘れさせてほしかった……。

 それから二日間、私は船の屋上デッキの床や手すりを何度か汚してしまいました。
 酔い止めが効かないほど、弱かったなんて……。
 癒術学校を留年なく二十一歳で卒業し、少しは大人になったかと思ったのに、私は自分のことを何も知りませんでした。


 第二話 動かぬ右腕

 蒸気船『ウォルナット号』はアルニカ半島の東岸、水鳥の頭のような形をした湾の奧にある、マグワートという港町を目指しています。マグワートから北へ数百マース(一マース=約一キロ)行くと、二百年前の戦争で事実上半島を統一した『カスターランド』の首都、ジンセンがあります。
 エルダー諸島から大陸までの距離は、地図上では首都ジンセンの方が近いです。しかし、航路の南北にうずまく奈落海流と北極海流の潮があまりに速いため、現代の船舶技術ではエルダー諸島のような遠洋からはマグワート以外の港には行き着けないのだそうです。

 大エルダー島の首都クラリーを出てから四日目の早朝、朝霞に煙るマグワートの街並みがようやく見えてきました。船酔いで弱りきっていた私は、湾岸に立ち並ぶ建物の数を見て、また催しそうになりました。人口二万といわれているクラリーでも大きな街だと思っていたのに、その数倍はあります。
 船が桟橋に着くと、私は革張りのトランクを抱え、先頭をきってタラップを駆け下りていきました。
 船の上で揺られることに比べたら、他の苦しみなんてきっと大したことありません。

 港のターミナルは人でいっぱいでした。半島の沿岸各地へ発つ船を待っている人が入り乱れ、そこに大型船の客が降りてきたのです。マグワートの市街図を見たかったのですが、汚れた空気の中でいつまでも壁にたどりつけない私は、また具合が悪くなってしまい、諦めて出口へ足を向けました。
 癒術学校を卒業した者は、大陸の風習や人の多さに慣れるため、カスターランドの玄関と呼ばれるマグワートを最初の拠点にするのが通例です。
 私もこの街で修行をはじめようと決めていました。
 しかし、決心はあっけなく覆りました。
 さきほど渡ってきた人の海は、荒波で知られるエルダー航路よりも恐ろしかった。利己心に侵されたオーラの津波が、何度も私を飲みこもうとしたのです。
 新鮮な魚貝が並ぶ港の市場には目もくれず、私はマグワート駅へまっすぐのびる石畳の道を、ふくらはぎが痛くなるほどの急ぎ足で進んでいきました。マグワート駅は首都ジンセンや、さらに北のラーチランドの街を結ぶ、東岸鉄道の始発駅です。
 様式的な彫刻が施された石造りの建物と時計塔。
 私は駅前広場の片隅に立ち止まると、記憶に焼きつくようにその姿を見つめていました。
「ごめんなさい」
 私はそうつぶやくと、駅の中へ駆けていきました。
 時刻表、人、改札口、人、待合室、人、掲示板、人、クロークルーム、えっとえっと……。
 頭がぐるぐるして、目の前にある切符売り場を見つけるのに何分もかかってしまいました。
 ほっと息をつき、列の最後につこうと一歩進んだときです。
 ドンと肩に何か当たって、私はトランクごと横倒しになりました。
「フン、田舎者が」
 気づいたときは、煤けた作業着の背中を見送っていました。イントネーションがおかしかったので、きっと地方からの出稼ぎの方でしょう。ちなみに私を含め、エルダー人は方言と標準語を使い分けることができます。
「どっちが田舎者よ」
 あっと、私としたことが。今のは訂正です。田舎は都会より劣っていると言っているようなものです。
 気を取り直して窓口の列に並ぶと、やがて順番がやってきました。
 木格子の向こうにいる、受付の老人が言いました。
「金は持ってるんだろうね?」
「な……」
 なんと失礼な。そりゃあ家は貧乏ですけど、ちゃんと卒業したから学則通り学費の一部が返還されて旅費に当てることができ……そんなことは今いいんです。
 私は笑顔を返しました。
「も、もちろんです」
「じゃあ早くしてくれ」
「あ、えっと……」
 しまった! 窓口の列に横入りされない方法ばかり考えていて、行き先をまだ決めていませんでした。
 私は黒衣のポケットから地図を取りだしました。でも、焦りで目がくらんでいて、現在地さえ見つけられません。
「次の急行が出てしまうわ!」「家の玄関から出直してこい!」「どこのムショから逃げてきたんだい、え?」
 急行の発車時刻が近づいているせいで、行列はどんどんのびていきます。
「はわわ! えっと、その、ジンセンまで!」
 地図の大きな文字しか目に入らなくなった私は、大陸で最も人口が多い街を選んでしまったのでした。幸い、チケットは三日間有効で途中下車もできるため、いきなりギブアップ帰郷ということはないでしょうけれど……。もちろん、旅費節約のため急行券は無しです。
 改札で小さなスタンプをもらい、プラットホームが連なる連絡通路に出ました。アーチ状になった高い屋根の下、向かって右に蒸気機関車が二台、左に客車末端の展望デッキが二つ並んでいて、ホームは全部で四つあります。
 マグワートは始発と終点を兼ねていて、私が乗るのは始発の方で、えっとそれから……。
 ジリリリリ!
「ひっ!?」
 大きなベルの音に、思わず左の方へ駆け出してしまった私は、『1』と書かれたホームの周りが慌ただしくなっているのに気づきました。
 最後尾の展望デッキのそばで、車掌が長い笛を吹きました。
 各駅停車は一本逃すと、二時間以上待たなくてはなりません。
「待ってください!」
 私はトランクを抱きしめ、白いスーツを着た車掌に駆け寄ります。
 車掌は先頭車に向かって笛を連呼し、発車を遅らせました。
「失礼ですが、チケットを拝見」
「えっ? 乗ってからと聞いてましたけど」
「不正乗車する輩がときどきいましてね。ギリギリに駆けこんできて、次の駅までどうにか私をかわし、急行料金をキセルするんです」
「はぁ、そうなんですか」
 私はチケットを出しかけて、ハッと気づき、すぐに引っこめました。
「どうしました?」
「すいません。急にお腹の調子が……」
「トイレなら車内にありますよ」
「そ、そういうんじゃないんです」
 私は急性の食中毒にやられたフリをしようと、口もとを押さえました。
 車掌は何かひらめいたような顔で言いました。
「これは失礼いたしました。産婦人科なら駅を出て右にございます。でも、急に走るのはよくないですよ」
「むぐ!」
 誤解を解きたかったのですが、致し方ありません。私は口もとを押さえたまま、初期の妊婦のフリをして、一番ホームからよたよた離れました。
 急行列車が去った後、チケットをよく見ると、隅のほうに『2』という印字が……。
 私は向かいの二番ホームまで連絡通路をとぼとぼ歩いていき、各駅停車のジンセン行きに乗りこみました。