プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第一章(前)】
【第一章 カスターランド】
第一話 旅立ち
新暦二〇一年 春
「うえっぷ……」
私は船上デッキの欄干にもたれかかり、片手で口を押さえました。
蒸気船『ウォルナット号』は人を選ぶ。就航当時からそう言われてきましたが、今その事実を実感しているところです。
ウォルナット号は、私の故郷であるエルダー諸島の中心、大エルダー島と大陸のマグワートという港町を結ぶ、週に一度の定期便です。
申し遅れました、私の名はプラム。この春、癒術(ゆじゅつ)学校を卒業し、癒師(ゆし)免許を取得すべく修行の旅に出るところです。
「おぇ……も、もうだめ」
海を見つめていたスーツ姿の若い男性が、見るに見かねた様子で近寄ってきました。
「君はエルダー人だね? 島を出るのは初めてかい?」
「は、はぁ……」
彼は私の顔ではなく、黒のワンピースを見て、異国の者と見破りました。なぜなら、上から下まで黒ずくめというのは大陸では不吉とされており、一方、エルダーでは癒師の制服を意味するからです。
私は息も絶え絶えに言いました。
「あの、酔い止めはお持ちでしょうか?」
「えっ? ああ、そうか。エルダーには咲かないんだっけ?」
大昔から『酔い止め』とくれば、この船の行き先、アルニカ大陸——実際は半島なのですが、とても広いせいか、単に『大陸』と呼ぶのが一般的です——の東岸に群生する野草を乾燥させて粉にしたものを指します。
若紳士から薬の小袋を受け取ろうとしたとき、後ろの方で野太い声がしました。
「この中に、お医者様はいませんか!」
ふり返ると、海運会社の制服。胸の名札には『副船長』とあります。
副船長は三度呼びかけました。
デッキの乗客たちは顔を見合わせるばかりです。
私はうつむいたまま震えていました。術の基本は一通り学んだはずですが、大陸に渡ってから頑張るつもりでいたので、心の準備がまったくできていません。
「いなければ、ナースでもいい! 腹が痛いそうだ!」
海の男の気短さが恐ろしくなった私は、つい口を開いてしまいました。
「あ、あの、私は医者ではないのですが、それに類する者といいますか……」
言い終わらないうちに、私は男に手を引かれ、一等室区画に通じる階段を駆けおりていきました。
個室のドアを開けると、色白のやせた男の子がベッドに横たわっていました。目をぎゅっとつぶって下腹部を押さえています。十歳くらいでしょうか。すぐ脇で両親が心配そうに声をかけています。
私のことに気づいた二人は、こわばった顔で言いました。
「なんだ若いな」と父親。
「その服は?」と母親。
私は癒術学校の授業で、大陸では癒師について誤解している人が大勢いると、学んでいました。ここで素性を明かすのは得策ではありません。
私は早口で話を遮りました。
「集中したいので、二人きりにさせてください」
少年の両親は不満そうでしたが「他に専門家は乗っていないようだし」と小声で話し合うと、副船長に促されて廊下へ出ていきました。
私は部屋のドアにさっと駆け寄り、小窓のカーテンを閉め、音を立てぬよう錠のつまみをまわしました。
癒術をよくご存じない方にとっては、私が患者に何をしているのか、きっと理解できないでしょう。緊急時はとにかく、施術の邪魔となる人は遠ざけるようにと、癒術学校のアンジェリカ学長がおっしゃっていました。
ベッドサイドへ戻ると、少年はすでに自分で上着をめくっていました。
私は微笑んで彼の手に手をそえ、元通りにさせました。
「どうして?」
少年の問いに、私は別の答えを用意していました。
「これからやることは、二人だけの秘密にしてください」
黙ったまま、しばらく見つめ合いました。
「わかった」
私はほっと胸を撫で下ろしました。年頃の子供は秘密が大好きなのです。
「その代わりさ、終わったらおっぱい触らせてよ」
「おっ! ……ぱいですって?」
近ごろの年頃の子供ときたら、まったく……。
そのとき、鍵がガチャガチャと鳴り、開かないと知るやドアを叩く音がありました。幸い部屋の鍵はそこの物書き机の上にあります。でも、副船長がマスターキーを持ってくるのは時間の問題かもしれません。まだ子供なんだし……私はそう自分に言い聞かせ、ひきつった顔で条件をのみました。
「まっすぐ横になって、目をつぶっていてください」
少年は黙って従いました。
私は深呼吸すると、彼の頭から足へ向けて、両手をかざしていきました。
下腹部が赤くぼんやりと光っています。どうやら腸の炎症のようです。急性ですがこの程度なら、半人前の力でも癒すことができそうです。
崩れて穴のあいた壁を、新しいレンガで埋めていくイメージを浮かべました。
「突っ立ってないで、早くしてよ」
少年の声に、私の集中は途切れました。
「痛てててて……」
「言う通りにしないと、おっぱいはありませんよ?」
少年は口をつぐむと、兵隊人形のように姿勢がよくなりました。
私はため息をつきました。イメージを浮かべ直し、レンガを積んでいきます。
ドアの方が騒がしくなり、また集中が切れそうです。学校では、クラスメイト全員が鍋叩きする中で特訓したのに……。でも、ここで誰かの妨害にあい、施術をつづけられなくなったら大変です。大陸の港まであとまる二日、単なる炎症とはいっても放っておけば、子供なら命取りになることもあります。
私は周囲を滝のベールで被い、雑音を閉め出して施術をつづけました。
「はい、終わりです。港に着くまではベッドの上でおとなしくしてること」
顔は平静を装っていますが、内心では成功の喜びに浸っていました。しかしです。この後すぐ、とてつもない恥辱が待っていることをふと思い出し、一気に覚めました。
不思議そうな顔でお腹をさする少年。
嫌いなおかずは先に食べる性格の私は、彼の手をとり、自分から胸を差し出すつもりでした。
そのときです。錠が開く音がして、両親が部屋になだれこんできました。
父親は真っ赤な顔で言いました。
「息子に何をした! 鍵なんか閉めて、違法な薬を使ったんじゃないだろうな!」
私は微笑みを返しました。
「何かする間もなく、症状はおさまってしまいました」
「なんだと?」
両親は元気そうな少年を見て、首をかしげています。
「少し、話をしました。彼は何かのために緊張していましたが、それを誰にも打ち明けられないようです。心当たりはありますか?」
少年の驚いた顔に、私はウィンクを飛ばしました。
父親は「仕事が忙しくて……」と、母親は「息子の悩みを聞いている時間がなかったんです」と、告白しました。
二人がそのことを詫び、少年が心のうちを打ち明けだしたところで、私はその場を後にしました。
屋上デッキへ通じる階段を上ろうとしたとき、副船長が不服そうに船長に話しかける声を耳にしました。
「少なくとも診察はしたんだ。代金は取らなくていいんですかね?」
船長は笑って答えました。
「そうか、君はこの航路に勤めるのは初めてだったな。エルダーの旅癒師は一宿一飯制と昔から決まっている。今回はどっちも運賃に含まれているから、必要ないというわけさ」
第一話 旅立ち
新暦二〇一年 春
「うえっぷ……」
私は船上デッキの欄干にもたれかかり、片手で口を押さえました。
蒸気船『ウォルナット号』は人を選ぶ。就航当時からそう言われてきましたが、今その事実を実感しているところです。
ウォルナット号は、私の故郷であるエルダー諸島の中心、大エルダー島と大陸のマグワートという港町を結ぶ、週に一度の定期便です。
申し遅れました、私の名はプラム。この春、癒術(ゆじゅつ)学校を卒業し、癒師(ゆし)免許を取得すべく修行の旅に出るところです。
「おぇ……も、もうだめ」
海を見つめていたスーツ姿の若い男性が、見るに見かねた様子で近寄ってきました。
「君はエルダー人だね? 島を出るのは初めてかい?」
「は、はぁ……」
彼は私の顔ではなく、黒のワンピースを見て、異国の者と見破りました。なぜなら、上から下まで黒ずくめというのは大陸では不吉とされており、一方、エルダーでは癒師の制服を意味するからです。
私は息も絶え絶えに言いました。
「あの、酔い止めはお持ちでしょうか?」
「えっ? ああ、そうか。エルダーには咲かないんだっけ?」
大昔から『酔い止め』とくれば、この船の行き先、アルニカ大陸——実際は半島なのですが、とても広いせいか、単に『大陸』と呼ぶのが一般的です——の東岸に群生する野草を乾燥させて粉にしたものを指します。
若紳士から薬の小袋を受け取ろうとしたとき、後ろの方で野太い声がしました。
「この中に、お医者様はいませんか!」
ふり返ると、海運会社の制服。胸の名札には『副船長』とあります。
副船長は三度呼びかけました。
デッキの乗客たちは顔を見合わせるばかりです。
私はうつむいたまま震えていました。術の基本は一通り学んだはずですが、大陸に渡ってから頑張るつもりでいたので、心の準備がまったくできていません。
「いなければ、ナースでもいい! 腹が痛いそうだ!」
海の男の気短さが恐ろしくなった私は、つい口を開いてしまいました。
「あ、あの、私は医者ではないのですが、それに類する者といいますか……」
言い終わらないうちに、私は男に手を引かれ、一等室区画に通じる階段を駆けおりていきました。
個室のドアを開けると、色白のやせた男の子がベッドに横たわっていました。目をぎゅっとつぶって下腹部を押さえています。十歳くらいでしょうか。すぐ脇で両親が心配そうに声をかけています。
私のことに気づいた二人は、こわばった顔で言いました。
「なんだ若いな」と父親。
「その服は?」と母親。
私は癒術学校の授業で、大陸では癒師について誤解している人が大勢いると、学んでいました。ここで素性を明かすのは得策ではありません。
私は早口で話を遮りました。
「集中したいので、二人きりにさせてください」
少年の両親は不満そうでしたが「他に専門家は乗っていないようだし」と小声で話し合うと、副船長に促されて廊下へ出ていきました。
私は部屋のドアにさっと駆け寄り、小窓のカーテンを閉め、音を立てぬよう錠のつまみをまわしました。
癒術をよくご存じない方にとっては、私が患者に何をしているのか、きっと理解できないでしょう。緊急時はとにかく、施術の邪魔となる人は遠ざけるようにと、癒術学校のアンジェリカ学長がおっしゃっていました。
ベッドサイドへ戻ると、少年はすでに自分で上着をめくっていました。
私は微笑んで彼の手に手をそえ、元通りにさせました。
「どうして?」
少年の問いに、私は別の答えを用意していました。
「これからやることは、二人だけの秘密にしてください」
黙ったまま、しばらく見つめ合いました。
「わかった」
私はほっと胸を撫で下ろしました。年頃の子供は秘密が大好きなのです。
「その代わりさ、終わったらおっぱい触らせてよ」
「おっ! ……ぱいですって?」
近ごろの年頃の子供ときたら、まったく……。
そのとき、鍵がガチャガチャと鳴り、開かないと知るやドアを叩く音がありました。幸い部屋の鍵はそこの物書き机の上にあります。でも、副船長がマスターキーを持ってくるのは時間の問題かもしれません。まだ子供なんだし……私はそう自分に言い聞かせ、ひきつった顔で条件をのみました。
「まっすぐ横になって、目をつぶっていてください」
少年は黙って従いました。
私は深呼吸すると、彼の頭から足へ向けて、両手をかざしていきました。
下腹部が赤くぼんやりと光っています。どうやら腸の炎症のようです。急性ですがこの程度なら、半人前の力でも癒すことができそうです。
崩れて穴のあいた壁を、新しいレンガで埋めていくイメージを浮かべました。
「突っ立ってないで、早くしてよ」
少年の声に、私の集中は途切れました。
「痛てててて……」
「言う通りにしないと、おっぱいはありませんよ?」
少年は口をつぐむと、兵隊人形のように姿勢がよくなりました。
私はため息をつきました。イメージを浮かべ直し、レンガを積んでいきます。
ドアの方が騒がしくなり、また集中が切れそうです。学校では、クラスメイト全員が鍋叩きする中で特訓したのに……。でも、ここで誰かの妨害にあい、施術をつづけられなくなったら大変です。大陸の港まであとまる二日、単なる炎症とはいっても放っておけば、子供なら命取りになることもあります。
私は周囲を滝のベールで被い、雑音を閉め出して施術をつづけました。
「はい、終わりです。港に着くまではベッドの上でおとなしくしてること」
顔は平静を装っていますが、内心では成功の喜びに浸っていました。しかしです。この後すぐ、とてつもない恥辱が待っていることをふと思い出し、一気に覚めました。
不思議そうな顔でお腹をさする少年。
嫌いなおかずは先に食べる性格の私は、彼の手をとり、自分から胸を差し出すつもりでした。
そのときです。錠が開く音がして、両親が部屋になだれこんできました。
父親は真っ赤な顔で言いました。
「息子に何をした! 鍵なんか閉めて、違法な薬を使ったんじゃないだろうな!」
私は微笑みを返しました。
「何かする間もなく、症状はおさまってしまいました」
「なんだと?」
両親は元気そうな少年を見て、首をかしげています。
「少し、話をしました。彼は何かのために緊張していましたが、それを誰にも打ち明けられないようです。心当たりはありますか?」
少年の驚いた顔に、私はウィンクを飛ばしました。
父親は「仕事が忙しくて……」と、母親は「息子の悩みを聞いている時間がなかったんです」と、告白しました。
二人がそのことを詫び、少年が心のうちを打ち明けだしたところで、私はその場を後にしました。
屋上デッキへ通じる階段を上ろうとしたとき、副船長が不服そうに船長に話しかける声を耳にしました。
「少なくとも診察はしたんだ。代金は取らなくていいんですかね?」
船長は笑って答えました。
「そうか、君はこの航路に勤めるのは初めてだったな。エルダーの旅癒師は一宿一飯制と昔から決まっている。今回はどっちも運賃に含まれているから、必要ないというわけさ」
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第一章(前)】 作家名:あずまや