北京2005
幸いにも、今回の反日デモのことを気にして、学院側は日本人学生に関しては、早期終了する者に対して、すでに支払った授業料や寮費の一部を返金すると申し出ている。里美は、帰国する決心をしたらしい。
雅夫も心に決めた。日本に帰ろう。もう中国なんてどうでもいい。中国語の勉強もしなくていい。それよりも、すぐにでも、新しい仕事を探そう。今回のプランは失敗のようだ。
雅夫は、事務局に帰国の意向を伝えた。それも急いで、明日の朝に発つということにした。航空会社にも電話して、明日午前の東京に戻る便を予約した。
部屋に戻り、準備を整えた。王老師には、明日の朝、事務局が事情を伝えるという。雅夫は別れを伝えるのがつらかった。というよりか気まずかった。自分が恋心を抱き、それを彼女が振ったことが、全ての原因であると思われるのが気掛かりでならなかった。自分から直接言い出せなかったのだ。
翌朝、北京首都国際空港へと向かうことになった。タクシーで行くのだが、里美も一緒に行くことになった。
彼女は、窓の外を見ながらずっと落ち込んだ様子だった。こんなことがあっていいのかと雅夫は思った。勉学の熱意が、全く別の政治的な理由で阻害されてしまうなんて。そもそも学生である我々には関係のない二国間の政治の問題なのに。ともあれ、こんな状態では勉学など滞ってしまう。そんな状態から二人とも脱出だ。
空港に着いた。出発手続きカウンターに向かったが、東京からの到着便が遅れていたため発券手続きが始まるまでには、まだ時間があった。思わぬ待ち時間ができてしまった。
里美と一緒に空港内を歩いた。どこか、時間を潰せる場所はないかと見回した。しばらくして、レストランが見つかったので、そこに入ることにした。二人とも朝食がまだだったので、今の内に済ましておこうということになった。
ベーコンエッグとミルクを注文して、食べながら、里美が雅夫に言った。
「ねえ、よければパパの会社で仕事を紹介してやってもいいわよ」
雅夫は里美の嬉しそうに勧める顔を見ながら
「いや、構わないさ。そんなこと頼むのなんて悪いから」
「遠慮しないで。せっかく出会った縁なんだし」
「そうは言われても、そんなこと頼むなんてずうずうしいよ」
しばらく、雅夫の再就職のことが会話の中心となり、そして、数分後、
「そうだね。せっかくだから紹介してもらうよ」
と何気なく雅夫は答えた。里美は、とても嬉しそうだ。大きな笑顔を見せ目が輝いている。
食事が終わり、雅夫たちはレストランを出た。すでに東京便の発券手続きが始まったとのアナウンスが流れたので、手続きカウンターへと向かう。
その時、英語で気になる話し声が雅夫の耳に入った。
「グレッグだ。今、空港に着いた。君に今から会いに行く。君の新しい男とも」
携帯電話を持った背の高い白人男性が横を通り過ぎたのだ。
雅夫は、その男の後を追った。里美が、「何しているの?」と声をかけるが気にならない。
ついていく。男は、手にバッグを持ちながら、空港ビルの外に出てタクシーに乗り込む。
そのタクシーが発車した後、雅夫もタクシーを呼び乗り込んだ。運転手にどこにいくのかと訊かれると、雅夫は「北京国際言語学院」と答えた。
前のタクシーの行き先は、それに間違いがない。タクシーは発進した。丁度、さっき過ぎ去ったタクシーの後を追う形となった。
雅夫は、ずっと気になっていたことがあった。紅玲の言っていた「好きな人」とは実際のところ誰なのだろうと? 彼女は、昨日別れた夫とのことは話したのに、そのことについては一切言及しなかった。
グレッグ・スチュワート、三十四歳のビジネスマンは、カナダ人で一年半ぶりに北京に来た。北京は彼にとって思い出の地であった。二年前に中国語を学ぶため、北京の語学学校に入学し、そこで、美しい女性教師に一目惚れした。美しく清楚で東洋女性らしい魅力を備えた若い女性。男なら一目見て惚れない者はいない。もし彼女に会って恋しない男がいたとしたら、そいつはゲイだ。
出会ってから中国語を学ぶことよりも、彼女に夢中になった。彼女を知れば知るほど夢中になっていった。そして、気が付くと彼女と結婚をして生涯を共にしたいとさえ思うようになった。彼女に想いを打ち明け、男女として付き合い始め、すぐにプロポーズをした。彼女は「しばらく考えさせて」と言い、すぐに答えてはくれなかったが、一ヶ月後、「イエス」と返事をしてくれた。
二人は、カナダに住むことを決心した。彼女も移住には乗り気であった。カナダに関心があったという。二人でグレッグの出身地、バンクーバーで新婚生活を送ることになった。だが、幸せだった結婚生活に思わぬひびが入った。それは、グレッグ自身が入れてしまったひびだ。前妻のアンが寄りを戻したくてグレッグに迫ってきたのだ。アンは、グレッグを昔の思い出で誘惑し、グレッグと再び関係を結ばせ、そのことを新妻に話して結婚生活を台無しにした。
新妻は、ショックの余り、体調を崩し入院、その後、グレッグに離婚を申し出た。グレッグは何度と弁解をしたが、聞いて貰えず彼女は北京へと戻っていってしまった。
自らの愚かさを反省したが、グレッグは彼女を諦め切れなかった。彼女のことを忘れられなかった。彼女のいない日々など彼には地獄でしかなかった。何としてでも彼女を取り戻そうと決心した。
そのために飛行機で北京まで飛んできた。何が何でも彼女を取り戻す。新しい男にも、その決意を話し分かって貰うつもりだ。
タクシーは、北京国際言語学院に着いた。
グレッグは金を払い、学院の建物に入っていった。
紅玲は、事務局から雅夫は帰国した知らせを聞いたところだった。とても驚いていた。理由は反日感情の高まりを懸念しての帰国とのことだった。他にも何人か日本人学生が同じ理由で帰国したというので、恐らくそれが主な理由だと思うが、昨日話したことがきっかけだったのではとも考えた。だが、いずれにせよ、自分に対し、理由を話すことはしにくいことだ。だが、もしかして、自分が思い切ってあることを話せば、帰国しなかったのかもしれない。彼女にとっては、とても勇気のいることであった。過去に失敗経験があり、そのことを引きずっているがため踏ん切りがつけないでいたことだ。だから、最初はとまどい、正直な気持ちを話せず、ごまかした。
その失敗体験の元から今朝、電話があった。昨日に続き、不愉快な電話であった。声を聞くなりすぐに切ったが、会いに来ると言ってきた。
「ホンリン、会いたかった」
と英語で話しかける声が、振り向くと背の高い白人男性がいた。彼女に抱きつこうとする。
「グレッグ、来ないでって言ったでしょう」
と紅玲は怒った表情で怒鳴った。カナダから来たこの世で最も身勝手な男だ。
「アイ・ラブ・ユー、ホンリン」
とグレッグは涙を流しそうな眼差しを紅玲に送る。
「私はもうあなたを愛していないわ。もう何度も言ったでしょう」
紅玲は睨みながら言う。
「新しい男ができたのか。そいつの方が俺よりいいのか。そいつに会わせろ。どこにいるんだ?」