北京2005
「だって、もう自由に外に出られないんだもの。中国人の友達に電話しても、今は付き合えないって言われるし」
里美の言葉には、苦悩が伝わった。純真爛漫なお嬢様が、生まれて初めての疎外感とそれから来る悲痛を味わっているのだ。
里美が、可哀想に思えてきた。雅夫は、紅玲のことを考えてみた。彼女も本心では、自分が日本人であることに抵抗感を持っているのでは。そんな感情を抱いているのでは。そういう風に考えるのはとても失礼な気がしたが、しかし否定できないことではなかろうか。紅玲は中国人だ。そして、自分は日本人だ。その事実は大きい。
雅夫は、思わず里美の肩に手を置き抱き寄せてしまった。里美に同情心が沸いたからだ。里美も、その抱き寄せに抵抗感なく応えた。
は、と目の前に、思わぬ人の視線を見てしまった。紅玲だ。王老師。たまたま教室の外の廊下を通りかかったようである。開けっ放しのドアから雅夫と里美が抱き合う姿が見えたようだ。
だが、王老師は無表情である。視線をさっとそらし、何も見なかったように廊下を通り過ぎていく。ほんの一瞬の出来事であった。
翌日、授業のため教室に出向いた。王老師と顔を合わすのは実に気まずかった。昨日した告白と、里美との抱擁を目撃されたこと、気まずいことが重なってしまったのだ。彼女にはどう思われてしまっただろう。とても軽い男のように思ったことだろう。「好きだ」と告白しながら振られると、その後しばらくたって別の女性に乗りかえる男。
しかし、雅夫は思った。それでいいんだ。どうせ、彼女とは結ばれる仲ではないんだから。むしろ、その程度の男と思われた方が気が楽だ。
紅玲は、いつも変わらなく雅夫と接して授業を進めた。雅夫もたんたんと、生徒らしく授業を受けた。お互いの内心を意識することなく、午前の授業は終了した。
食堂で昼食を済ませ、教室に戻ろうとする雅夫。丁度、職員室の前を通りかかった。何やら英語でややけんか腰の女性の声が聞こえる。それは紅玲の声だった。
彼女が学内で英語を話すのは、雅夫だけであるので、不思議に思い聞き耳を立てた。ドアが開いているので、こっそりと様子を見る。紅玲は、電話の受話器を持って英語で話しをしている。かなり興奮した口調で。周囲に一人、年老いた男性の教師がいたが、彼には遠慮はしてないようだ。おそらく、その教師は英語が理解できないからだろう。彼女が英語で話すと言うことは、アメリカやイギリスからの英語圏の留学生か業者が相手だろうと推測される。
雅夫は、何かトラブルが起こったのだろうか、と心配になった。
「グレッグ、お願い。もう私に構わないで。約束したでしょう。離婚した後は一切、顔を合わさないって」
紅玲が声を荒げて言った。受話器から、大声で返答する声が漏れ聞こえ、それにまた返すように言う。
「カナダから来るですって。冗談じゃないわよ。私と寄りを戻せるって本気で思っているの?」
離婚、カナダ、寄りを戻す、そんな言葉が雅夫の心に衝撃を与えた。
「いい加減にして。もうあなたが来ても、何の心変わりもしないわ。私にあんなひどい思いをさせて。それに、言っておくけど、私には、すでに好きな人がいるのよ」
紅玲が、そう言った瞬間、ドア越しの雅夫と視線がぱったり合ってしまった。
紅玲はさっと受話器を電話機にぶつけるように置いた。かなり気が立っているような様子だ。
雅夫は、さっと視線を廊下の方に向け素知らぬ振りをして歩き去った。雅夫は、衝撃を受けていた。それは、紅玲が以前、外国人と結婚をしていたこと、そして、離婚を経験し、今は別の男性を好きになっていることを知ったからだ。何というか、最初から自分は太刀打ちできる立場になかったことを思い知らされた気分だ。
授業の時間になった。雅夫は、先に教室の椅子に座っていた。王紅玲老師が入ると、お互い気まずい表情を付き合わせた。
紅玲は椅子に座り、雅夫を真正面に見て顔を付き合わせる。真剣な目をして言う。
「雅夫、さっきはみっともないところを見せてしまったわね。気になるでしょうから話しておくわね。電話の相手は、カナダ人で私の元夫、二年前、私の生徒だった人よ。こことは違う別の中国語学校で教師をしていた時に出会ったの。彼は私に中国語を習いながら、私に興味を示して、私も彼に何となく興味を持ちだして、それで付き合いが始まり、結婚をすることになって、カナダに私は移住したの。だけど、結婚生活が始まって、半年もしない内に別の女性と浮気をして、私はすごく傷つけられたわ。それで、また中国に戻って最近、ここで教師を始めることになったの」
紅玲は淡々と語った。雅夫は、圧倒されてしまった。なるほど、そういう過去があったのか。まあ、誰にでも、そんな体験はあるだろう。だが、何も自分にわざわざこんなことを話さなくてもと思った。慰めの言葉が欲しいのか。それなら、新しい恋人に求めればいいのじゃないかと思った。
だが、雅夫は、紅玲が可哀想になり、男らしく振る舞いたくなり言った。
「君のような美人を妻にめとりながら浮気をするなんてとんでもない男だね。羨ましいだけでなく、許せない男だ、そのカナダ人」
紅玲の表情が急に和らいだ。微笑みながら雅夫に言った。
「ねえ、雅夫はこれまで結婚をしたことはあるの?」
「僕はまだだ。いつだってしたいと思っているけど」
彼女にそんなこと言っても、意味がないと知りながら言ってしまった。何だか恥ずかしい。
「ねえ、あなたとは英語か中国語でしか話しをしてないけど、私、日本語が知りたいわ」
「へえ、日本語に興味があるんだ?」
「少しね。考えてみれば同じ漢字を使っているのよね」
「というよりか、日本が中国人から貰い受けたんだ」
「ねえ、日本語で我喜歓イ尓ってどう言うの?」
雅夫は、紅玲の質問にどきっとした。一体どうしてそんなことを訊くんだとびっくりしながら、普通に応えた。
「ワタシハアナタガスキデス」
紅玲が、復唱するように、同じ言葉を言う。だが、言いづらいようだ。
「もっと短い言い方があるよ。一言「スキ」と言えばいいんだ」
「スキ? それだけでいいの?」
「ああ、簡単だろう」
一瞬、二人は見つめ合った。何だか、変な気分になってくる。
「やだ、私ったら、生徒に生徒の言葉を教えて貰うなんて。私が教える立場なのに。さっそく授業を始めましょう」
気分は一転、通常通りとなった。雅夫はからかわれたような気分になった。彼女には、どうせ他の男がいるんだ。多分、中国人だろう。彼女のことなど、どうでもいい。
その日の授業が終わり、雅夫は寮の部屋で一人じっくり考え込んだ。このまま、ここで中国語を習い続けるべきであろうか。当初は三週間で、それ以降、長期の学習をするのなら、一旦日本に戻り、再度、手続きをして一年間の語学留学をするつもりだったが、反日デモ以来、情勢は厳しい。日本人が中国に住むのはとても難しい状況だ。その上、彼女とのことがある。あっさりと振られても、想いを払いのけられず、お互い気まずくなっていくばかりだ。二週間ほど授業期間は残っている。使わなければもったいないが、このまま不自由な状態の上、王老師と顔を合わせ続けなければいけない。