北京2005
ここは「天安門広場」だ。思った以上に広い場所だ。故宮博物院(紫禁城)に入るための天安門とその周辺の大きな広場。ただだだ広い。中国の首都、北京を象徴する名所だ。バスを降りた歩道から向かいの天安門までは、数百メートルの幅を有する広い道路がある。
地下道を渡って、天安門広場に着いた。目の前に巨城がそびえ立つ。赤い壁面に黄金の屋根。門もとても高い。二人で中へと入っていく。雅夫はぞくぞくとした。
すぐに大きな広場に来た。だが、ここは単なる広場であった。制服を着た人民解放軍と呼ばれる数十人の兵士達が同時に走り点呼を取っていた。何だか、緊張する場面だ。
「さ、あそこに入場券売り場があるわ、行きましょう」
と紅玲が数百メートル先を指さす。観光客らしき人々が列をなしている場所が見えた。目的の故宮博物院に入るための入場券を買う場所だ。
かつて紫禁城と呼ばれた「故宮博物院」に入る。そこは別世界であった。古典の世界に入ったような感覚を覚える。白い石畳の広場を黄金色の屋根の宮殿が取り囲む。実に荘厳な姿だ。
紅玲とゆっくりと進みながら眺める。雅夫は、この紫禁城の歴史をよく知っていた。学校で中国の歴史として習ったことがある。中国の明の時代から清の時代まで実際に皇帝が住んでいた場所だ。日本で言えば「皇居」に当たる。そして、皇居並に広く、数多くの宮殿が連なって佇んでいる。五世紀に渡り皇帝達が過ごしたところなのだ。しかし、二十世紀初頭に清朝が滅亡し皇帝は紫禁城を追われることとなる。映画「ラスト・エンペラー」では、その中国清王朝、最後の皇帝「溥儀」の人生とその時代の世相が描かれていた。そして、その中ではもちろんのこと、その溥儀を利用して中国侵略を目論む日本軍の姿も。
「さあ、どんどん進みましょう。ここは広くてゆっくりしていたら、何も見られないわ」
と紅玲は微笑んで言う。彼女の微笑みは、この美しい場所にとてもお似合いだった。まるで映画女優とデートしている気分にさせる。
故宮は、実に広い。宮殿を通り過ぎると、また新たな宮殿。そして、宮殿の中には庭園も見られる。各宮殿の庭園は個性的であり、木々が植えられ、面白い形の岩も置かれ、実に面白い。建物から歩きながらそんな庭園を眺められるように回廊が備え付けられている。
宮殿の中には、かつて皇帝が執務や謁見をした部屋や、生活に使っていた道具や調度品、美術品などが展示されていた。どれも目を見張る。歴史の重みを感じさせる。
紅玲は、さっさっとツアーガイドのように故宮を案内する。現地人らしく、知り尽くしているような足取りだ。見ているだけで気持ちが一杯になり、言葉が出てこない。発せる言葉は「美しい」だけだ。中国語では「ピョーラン」と言うらしいが。
約三時間、圧倒された時間を過ごした。気が付くと、出口にいて故宮の外の大通りに出ていた。こんな美しい場所を訪れたのは生まれて初めてだ。三時間ではとても足りるものではない。その上、これで彼女と過ごせる時間も終わりなのか。
幻想の世界から一挙に現実の世界に引き戻された気分になった。
「ねえ、この故宮を上から眺めてみない。あの丘の上に上がれば全体が見えるわよ」
と紅玲が指差す方向を見ると、小高い山が目の前にそびえる。その頂上に四阿のような建物がある。なるほど、あそこからなら、広い故宮全体が眺められる位置だ。
二人は、小高い山のある景山公園へと通りを横切り向かった。公園の入り口門を抜け、山を駆け登っていく。
頂上の「万春亭」という四阿風の建物に着いた。柱が区切るだけの四方の視界から、北京全体の景色が眺められる。
そして、目の前の故宮の景色。黄金色の宮殿の屋根が連なる紫禁城の全景。さっきまで三時間の間、歩き回っていた広い場所が視界にすっぽり収まってしまう。高いところから眺めているのだから当然といえば当然だが何だか不思議な気分になった。
だが、全景は中にいた時以上に美しさの衝撃を感じさせる。美しすぎる。そう言いたくなるぐらいの美しさだ。
「どうだったかしら、北京といえば、何と言ってもここよね」
と紅玲が雅夫の感動のにじみ出る表情を見ながら得意気に言った。
「ああ、本当にすばらしい。こんなところが、この世に存在するなんて信じられない。東京から飛行機三時間で来られるんだ。日本には、こんな美しいところはない。まさにピョーランだ」
雅夫の言葉に紅玲はとても嬉しそうな笑顔で応えた。その笑顔が、雅夫の心を激しく揺さぶる。反日デモが始まってからここ数日、不安で打ちのめされた気分の中、彼女の笑顔だけが救いであった。
美しい故宮の景色に、この美しい彼女の笑顔。雅夫は、いけないと思いながらも、思わずその気持ちを抑えることができなくなった。
「美しいのは故宮だけじゃない。君もだ」
紅玲の表情が、とたんに変わった。緊張した面持ちになった。だが、雅夫は続けた。
「紅玲、我 喜 歓 イ尓(僕は君が好きなんだ。)」
「雅夫、それ本気で言っているの?」
紅玲は言った。
「ああ、本気さ」
雅夫は彼女の反応が気になった。本気だと分かって欲しい。そして、それについてどういう意見も持っているか聞きたい一心であった。
「雅夫、私とあなたは老師と生徒の関係だわ。それは分かっているわよね」
紅玲は、やや困ったという表情をして言う。
「ああ、分かっているさ。それでも、男と女として付き合いたいと思っている」
「雅夫、駄目だわ。私は、あなたを生徒としてしか見られない。あなたは悪い人じゃないと思うけど」
やはり、という反応である。雅夫は、これまでの人生で愛の告白をしたことは何度かあった。その半分はいい回答で、それ以外は彼女のように丁寧に断られるという具合である。そういう経験からか、振られたことがショックにはならなかった。
しかし、急に目が覚めた感覚である。考えてみれば大それたことをしでかしたのだ。本来、短期の留学で来たのに、その学校の先生と関係を持とうとする。今後、ずっと住むわけでもないのに大胆不敵過ぎる。彼女だって困るだろう。日本で女の子を引っ掛けるのとは事情があまりにも違いすぎる。ましてや、今のように両国の関係が険悪化している時期に。彼女の親切につけ込んだみたいで情けなかった。
「すまない。バカなことを言ってしまって。単に気分的に出た言葉なんだ」
雅夫は、とても恥ずかしかった。紅玲は、顔を赤らめた雅夫を見て気遣うように言った。
「気にしないで。こんなこと、あなただけじゃないから。今まで何度かあったことよ」
「過去にも何度か?」
雅夫は、驚いて訊いた。
「そう、でも過去のこと。そうだ。今日の授業はこれでお終い。学院に帰りましょう」
紅玲はそう言い、万葉亭から下る階段の方へ向かった。雅夫は、黙ってついていった。
昼食を食堂で済ませ、寮へと戻ろうと学院の廊下を歩いていると、ふと里美を目にした。誰もいない教室で、一人落ち込んで立っている。
教室の中に入り、里美に声をかける。
「リーメイ、どうしたんだ? 元気ないようだけど」
「私、留学を切り上げて日本に帰ろうと思うの」
「え、どうして?」
雅夫は驚いた。