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かいかた・まさし
かいかた・まさし
novelistID. 37654
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北京2005

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「さっきは何って言ったのか分からないけど、苦境を救ってくれてありがとう。本当に危ないところだったよ」
「くだらないことよ。さ、授業を始めましょう」
 雅夫は、気まずい気持ちがどうも抜けない。授業を受ける気分にはなれない。そして、言った。
「授業を受ける前に、お互い、中国人と日本人としての立場で話し合うべきことがあるんじゃないかなと思うんだ。僕たちの国は過去に悲惨な戦争をして。もちろん、僕たちが加害者だから悪いことは分かっているし。さっきのような人達がここに来たのも、ここに日本人がいると分かってのことだろうし」
 王老師は、無表情なまま答えた。
「ごめんなさい。生徒とは政治的なお話はしないの。でも、言わせて貰うなら、生徒達は好きだけど、あなたの国の総理は嫌いということかしら」
 これは踏み込めない、雅夫は何も言わず教科書を開いた。
 今日の学習テーマは「・・は・・が好きだ」という表現の使い方だ。「私は・・が好き」は「我喜歓・・」という言い方をする。
 ふっきれない気持ちを抱えたまま、その日の授業は終わった。
 翌日は、週末の休みとなったが、雅夫を含め日本人の生徒は学院から外出禁止を言い渡される事態となった。外に出て日本人と分かれば殺されるかもしれないという噂が流れた。不安が募るばかりである。雅夫にすれば、失業中の身で大事な貯金を切り崩して北京まで来たというのに、ろくに観光ができない状態だ。まるで籠の中の鳥だ。
 インターネットのニュース記事によると、今度の反日デモは、小泉首相の毎年行う靖国神社参拝、歴史教科書における加害事実の削除などから溜まりに溜まっていた悪感情が、最近の日本の国際連合常任理事国入り提示ということで一気に爆発したことが要因のようだ。北京の日本大使館、日系の商店、料理店がデモ隊のターゲットにされ、暴徒化したデモ隊により石を投げつけられ破壊行為に転じることまで起こっている事態だ。
 そして、この暴動を含めた反日抗議行動は日に日に中国全土に広がり、勢いも増している。
 デモに参加しているのは中国人でもごく一部の者達なのだろうが、だが、周囲を敵に囲まれ戦場に取り残されたような気分だ。
「俺、自分のことを韓国人だって言ったんだ」
と若い大学生の日本人が言った。彼は、外出禁止に耐えられず外に出たのだが、どうやら日本人であることを悟られそうになってとても怖い思いをしたらしい。
 生まれて初めてだ。自分が日本人であることが呪わしく思えたのは。日本の政治家達が憎らしかった。きちんと選挙に行って政治に関心を持ち、こんな揉め事を起こす政治家達を選ばなければ良かったと思えた。もちろん、中国にだって非はある。反日感情がここまで増大した背景には中国政府が推し進めた愛国心高揚のための日中戦争における日本軍による被害を強調した教育も要因となっている。だが、今までの経緯を考えると日本側も神経を逆撫ですることが多かったように思える。
 高校時代、歴史の先生が言っていたことを思い出す。先生は、左寄りのタイプの人で、その立場から生徒達にこう語った。日本人は自分たちが侵略戦争を始め、交戦国の市民に多大な被害を与え、その結果負けたことを忘れてしまっている。戦争の話しを蒸し返されれば、いつも悪者にされてしまうのは、やも得ぬことと受け流さないとならない。そして、かつてのことを反省し、もう軍国主義国家でないという姿勢を示し続けなければならない。そういう立場なのだと。
 実際のところ日本で戦争といえば、広島・長崎の原爆、東京大空襲、自分たちが被害者となった物語しか語ろうとしない。
 最近になって、そのツケを払わされている感じだ。皮肉なことに、首相の靖国参拝で象徴されるように、むしろ社会は右傾化して、過去のことを美化するような方向にある。
 これはどうしようもならないことなのか。日本と中国の関係はどうなっていくのだろうか。このまま行けば国交が断絶しかねないかも。そうなると中国語を学ぶ意味なんてないのかも。
 月曜日となり、授業が始まった。王老師は、雅夫の不安気な表情から、雅夫の心理状態を悟った。
「ねえ、こんな状態じゃあ、あなたも勉強に集中はできないわよね」
 雅夫はとても弱気な口調で言った。
「大丈夫です。お金払って、はるばる来たんだから、その分はしっかり勉強します」
 こんな返事をするのがやっとだった。雅夫は中国語を習う気力を一挙に失っていた。
「ねえ、あなたがそんな気分じゃあ、教える私も嫌よ」
と王老師。じゃあ、辞めてしまえと言うのか。残りの授業代を払い戻してくれるのか。
「思い切って、課外授業と行かない。学院を出て、北京を観光するの。私がガイドになってあげる。私が一緒だから、あなたが日本人だということは隠せるわ。カップルの振りをするのよ」
 雅夫は不安げな表情から驚きの表情に変わった。何という大胆なことを、と思った。
「それはできないでしょう。だって、カップルの振りをするなんて、あなたの愛人(夫)が許さないでしょう」
「私がいつ結婚していると言ったのかしら」
と王老師は答える。
「だって、我有愛人って言ったじゃないですか」
と雅夫。
「ああ、あれは会話の練習の一貫よ。単に受け答えのパターンとしてそう言っただけ。本当の私がどうだかという意味じゃないわ」
と王老師はあっさりと答えた。
 雅夫は、しばらくあっけに取られた。絶望の淵から、手を突然差しのべられたような気分になった。
「どう、北京観光には行きたくない?」
「是非とも、喜んで」
と雅夫はうきうき気分になって答えた。

 学院を二人は出た。雅夫に取っては数日ぶりの外出だ。缶詰にされた状態から脱出して、外の空気を吸う。すがすがしく空気を吸おうかと思ったものの、反日感情がうずまく外の世界。むしろ、さっと緊張感が込み上げ、体がたじろんだ。
「行きましょう。さ」
と王老師が微笑みながら言う。それで急に緊張がほぐれた。そうだ。今日は彼女とカップル、愛人になるのだ。雅夫は、ふと訊いてみたくて言った。
「僕たち、これからカップルになるんだけど、いつも王老師と呼んでいるけど、下の名前は何と言うんだい?」
「ああ、教えてなかったわね。紅玲(ホンリン)と言うのよ」
と王老師は答えた。
「紅玲って呼んでいいわよ。私もあなたのことを雅夫(ヤフ)と呼ぶから」
 何だかとてもいい雰囲気になってきた。反日感情のことなど気にならなくなった。
 二人は北京市都心行きのバスに乗り込んだ。バスに乗り込む。中は人でごった返していた。再び緊張が走ったが、紅玲が雅夫の腕を引っ張り、隅の方へ行く。二人で車窓を眺めることにした。会話はできない。雅夫の日本語か、下手な中国語を聞かれたら、周囲からどんな仕打ちを受けるか分からない恐怖を感じる。
 バスはどんどん中心街へと進む。停車する度に通りは広くなり、大きな建物が視界に入ってくる。
 そして、見覚えのある建物が見えてきた。テレビで中国の北京というと必ず、その象徴として映される場所だ。
 紅玲が、雅夫を引っ張りバスの出口に向かわせる。お金を払い、外に出た。
作品名:北京2005 作家名:かいかた・まさし