海岸の思ひ出
僕はその日の夜、寝付くことが出来なかった。
何時間も、ベッドの中に潜り込んで、目を閉じていた。けど、うとうとしただけで、全然眠れなかった。日付が変わる時間になっても、眠れなかった。それからも数時間、寝たくても眠れない状態が、続いてしまったんだ。
それで僕は、おてんとうさまよりも、ずっと早く起きてしまった。そして、外に出て、海岸を散歩していた。
僕はなんだか、いてもたってもいられなかったんだ。
満月の夜だった――星が綺麗だった。僕の傍を横切っていく潮風が、心地よかった。僕は、海を眺めながら、歩き続けた。こんなにも、海と夜空が綺麗に思えた日はなかった。
しばらくして、視線を崖の上に移した。おじさんはいなかった。もう、日付が変わってしまうほど遅い時間だからなのか、僕と例の話をした後で、気まずかったのか、分からないけれど……とにかくそこに、おじさんはいなかった。
僕は、おじさんの切なげな横顔を思いながら、視線を前に戻した
……――人影があった。
あの人が、そこにいた。
素足で、砂浜の上に立って、僕をじっと見つめていた。
僕はその人と目を合わせる。――まるで月を眺めるかのような感じがした。
僕は、その人に歩み寄った。
「あのさ……」
僕は語りかける。
その人は僕に微笑みかけた。
僕は歩み寄りながら、続けた。
「僕を助けてくれてありがとう。けど、一つお願いがあるんだ。君が何十年も前に助けてくれた人を、覚えてる? ……もう一度だけ……もう一度だけ、そのおじさんに会って欲しいんだ。君のために止まってしまったおじさんの時を、動かしてあげて欲しいんだ」
その人の表情から、少しだけ笑顔が引いた。僕は立ち止まった。
もの悲しげな表情が、少しだけ浮かび上がった。それでも口元だけは、微笑んでいた……とっても優しくて、寂しげな微笑みだった。
その人が、小さく頷いた――ような気がした。
その人は、僕に背を向けると、数歩進み出した。そのまま、そよ風が帳になって、その人を隠したみたいに、その姿は透明になって、見えなくなってしまった。
……――僕はしばらく、その場所につっ立って、その人が消えた場所を眺めていた。
ふと、僕はその人がいた足元を見遣った。足跡は、砂の上に確かに残っていた。けれども、それはまるで、羽がふわりと落っこちた後のように、かすかで、儚げな足跡だった。
僕は再び海の方を向いた。
膝を抱え込む形で、あの人の足跡の傍に座り込んで、海と、空と、水平線を、眺め続けることにした。僕が小さい頃からずっと……いや、おじさんが小さかった頃からも、ずっと……いつになっても、変わることがないんだろう、波の押し引きの音色に、静かに聞き入ることにした。僕は、そっと目を閉じた――。