海岸の思ひ出
それからというものの、数日間、僕はそのことが気になりっぱなしだった。
僕は一人で、おじさんの家に遊びに行った。
「おお、ハルーや。よく来たな」
机越しに、笑顔で出迎えたおじさんは、その日も相変わらず、葉巻タバコをふかしていた。部屋中が、タバコの臭いに満ちていたけど、僕には慣れっこで、僕にとっては居心地のいい香りだった。
おじさんは、シンドラー兄ちゃんと一緒に、古文書や外国の本の翻訳とかの仕事をしているみたい。僕がその日、おじさんの家を訪ねたときも、おじさんの家の中は、そこらじゅう古い本が山積みで、机の上には書類やら覚え書きやらが広げっぱなしだった。
僕は、シンドラー兄ちゃんが出してくれたお菓子を食べながら、おじさんが話してくれる物語や豆知識を、しばらく楽しんでいた。
そうして、切りの良さそうなところになったトコで、おじさんに、あの日の女の子のことを打ち明けた。
「……ハルー……ッ!」
おじさんは、僕の話を聞いた後、すぐには何も答えなかった。しばらく僕の顔を、眼を見開いて、じっと眺めていた。
「その話は、本当か?」
おじさんが、念を押すように聞いてきた。
「……う、うん」
僕は慌てて頷いた。
おじさんはその後、女の人の見た目、性質、特徴とかを、立て続けに質問してきた。僕はそれ全部に答えた。けど少し怖くなって、固まってしまっていた。こんなにびっくりした、そして、こんなに真剣な表情のおじさんは、初めて見た。冷静沈着なシンドラー兄ちゃんですら、少なからずたまげた様子で、積まれた本を両の手に抱えたまま、僕らを見守っていた。
「ハルー……」
煙を深く吐いたおじさんが、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「この話は、外でしようや……」
おじさんに促されて、僕は裏口から外に出た。
外はそのまま、崖の上になっているんだ――おじさんが、月明かりの夜になるといつも、海を眺めている場所だ。
「ハルーや。なんで、俺があんなになったのかと思うだろうが……」
僕らが崖の端あたりまであるいたところで、おじさんが言った。
――僕が、仰天するようなことを。
「俺は昔、その子に会ったことがあるんだよ」
僕は思わず、おじさんの方を向いた。おじさんは、くわえた葉巻タバコを口元でふかしながら、海を眺めていた。
――あの悲しげな立ち姿が、表情が今、僕の目の前にあったんだ。
「俺はね、ハルー……話せば長くなるんだが……」
おじさんが話した内容は、大体、こんな感じのものだった。
十七歳の頃、自分が海で泳いでいたとき、その人に助けられたこと。それ以降、その人に恋をしてしまっこと。その日の夜、その人のことを思いながら、海岸で散歩をしていたとき、再びその少女が目の前に現れたこと。それからというものの、海岸で、その人と一緒に歩きながら過ごすことが、晴れた月夜の楽しみになったこと……ちなみにその人は、結局言葉は一言も話すことがなかったみたい。きっと、言葉を話せないのだろうって、おじさんは言ってた。
だけど、おじさんが十八歳の誕生日を迎えてからというものの、その人は忽然と姿を消してしまったらしい。それでもおじさんは、その人を何年たっても、何十年たっても、忘れることができなかったらしい。それで、おじさんは、四十代のとき、この崖の奥に家を建てた。そして、晴れた日の夜――その人を見つけた、月明かりの夜には、いつも、海を、そして、海岸を眺めているのだという。
「俺が思うにね、ハルーや」
おじさんは、僕のほうを向いて、言った。笑っていたけど、すごく悲しそうな、切なそうな目をしていた。
「その子はきっと、子供、それも、ほんの一握りの子供にしか、見えない存在だったんだよ。だから俺が十八歳になって、ああ、おれはもう大人なんだ、って思ったときから、あの子はもう、俺には見えなくなってしまったんだ……けど……」
おじさんが話した一言一言全てを、僕は今でもはっきり覚えてる。
けど、とりわけ、この後おじさんが言った言葉を、僕は一生忘れることは出来ないと思う。
「だらしないもんだよ……それでも、俺の時間は止まっちまったんだ。あの子が見えなくなった、その時から。あの子を失った、その時から……俺の時間は、止まっちまったんだよ」
聞きながら、僕はいつの間にかおじさんの手を見つめていた。十歳の僕の手と違って、皺だらけになってしまった、おじさんの手を。
(ああ、おじさんは、もう本当に、こんなにおじさんになっちゃってたんだ……)
そんなことを考えて、僕はなんだか急に切なくなった。胸がものすごく、熱くなった。
気がつくと、何でだか、僕の目から涙が流れていた。
そして、そのまま僕はすすり泣き始めてしまっていた。