海岸の思ひ出
目の前にいた魚は、今まで見たことがないくらい大きかった。そして、ものすごく早かった。僕は突然の出来事で慌ててしまってたから、水中で竿から手を離したのは、海に落ちてから何秒も経ってしまった後だった。
波は、思ったよりも強かった。僕は必死に泳いで、水面に浮き上がった。犬掻きするみたいにじたばたしながら、陸地の方を見遣る。カイエンが助けを呼ぶために、崖の上の、おじさんの家に向かって、大慌てで走っている後姿が見えた。
僕は陸地に向かって。泳ぎだす。けど、泳いでも泳いでも、陸地から遠ざかっていた。波の向きが、陸地から遠ざかる形になってしまう場所まで、僕は流されてしまっていたんだ。
僕は泣きそうになりながら、がむしゃらにじたばた泳ぎまくった……今思えば、すごくかっこ悪かったんだろうな、その時の僕……けど、陸地からはどんどん、右向きに流されていく形で遠ざかっていた。
腕も足も、疲れはてて来てしまってた。僕の口や鼻に、しょっぱい海水が流れ込み始めていた。徐々に水面から顔を出していられなくなって、僕はついには完全に沈んでしまった。死んじゃう……僕はそんなことを思いながら、水面の方を向いていた。ゆらゆらと揺れている、太陽の輝きは、今思えば、すっごく綺麗だった。
僕は息が本当に詰まりそうになった――すんでのところだった。
急に、ふわりと、持ち上げられるような気がした。まるで、水が大きな手のようになって、僕を押し上げていくかのようだった。
そうして次の瞬間、気がつくと、僕は海岸の砂浜の上に、うつぶせに倒れこんでいた。何が起こったのか、さっぱりわからなかったけど。僕はとにかく咳き込んで、呼吸を整え始めようとした。
そうして、ふと自分の横を見た。
静かな人影があった。白くて長いワンピースの裾がひらひらと風にゆれていた。傷一つない、白い素足が見えた。
僕は上を見上げた。
女の人だった――今思うと、年は十七歳くらいだったのかな。
細い目。背が高いけど、細みな体。とっても美しく整った顔つき。小さな唇。淡い金色の短髪。……透き通るかのような、白い肌。
……今まで見たこともないくらい、綺麗なヒトだった。
「君が……」
僕は、その人に訊ねた。
「助けてくれたの?」
その人は、何も言わなかった。
ただただ、僕に微笑んでいた。とっても優しくて、上品で、はかなげで、触れるのが恐ろしいほどの……素敵な笑顔だった。
その人は少しだけかがんで、そっと、僕に手を差し伸べた。
僕はちょっとだけ困惑した。けど、その手を、そっと握り締めた――とっても細い指だった。すごく心地のいい肌だった。
そうして、そっと助け起こされた。
「……ありがとう」
僕はそう、その人に言った。
その人は、また、僕に微笑み返した。
「……――ハルーーーーーっ!」
カイエンの声が、聞こえてきた。
僕が振り返ると、カイエンとシンドラー兄ちゃんが、崖の方角から駆け寄ってくるところだった。
「ハルー! 大丈夫だったの?」
カイエンに語りかけられて、僕は頷いた。
「うん」
「怪我はないか?」
シンドラー兄ちゃん――メガネをかけた、知的な人で、目つきが細く鋭くて、取っ付きづらそうだけど、実はとってもいい人――もまた、僕に語りかけた。
「大丈夫だよ」
僕は、笑顔で言う。
「この人が、助けてくれたみたいなんだ――」
そういって、僕は前を向いた。
その人が、いなくなっていた。
日の当たる砂浜と、打ち寄せる波だけがあった。その先には、僕の家が見えるだけだった。
「あれ……?」
僕は、呆けたように、ぼうっとすることしかできなかった。