天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~
卯吉はしばらく腕を組んで思案にふけっていた。
「この界隈は、あのマムシの喜八の縄張りだ。もし富松さんを連れていったのが、本当に喜八だとなると、こいつはちょいとばかり面倒だぜ」
喜八はこの辺り一帯を取り締まる岡っ引きである。その異名からも判るとおり、一度これと狙った獲物には、食らいついて離れない。この喜八に情や分別を期待するのは土台無理な話で、凶状持ちですら、喜八に睨まれると、竦み上がるといわれていた。
「まさか、お絹ちゃんが喜八親分に―」
お璃久が呟くと、卯吉が溜め息をついた。
「今は富松さんがキリシタンだと密告した奴を詮索するより、救い出す手立てを考える方が先だ」
が、卯吉もそれがいかに困難なことかは重々承知しているのだ。
「お前さん、明神の龍五郎親分に相談してみてはどうでしょう」
お璃久が控えめに言った。
〃明神の龍五郎〃とは、神田明神下に住む極道の親分である。裏の世界にもかなり顔がきき、大勢の子分から慕われるだけあって、任侠にも厚い。以前、茶漬屋〃ねこや〃がまだ〃いっぷく〃という名であった頃、卯吉の祖父卯平が友人の伜の借金を騙されて肩代わりさされたことがあった。
その折、龍五郎が金貸しから頼まれて金の取り立てに卯平の前に現れたのだ。だが、身を挺して卯平のために龍五郎に向かっていったお璃久を龍五郎は気に入った。
そして、お璃久の前で借金の証文を焼き捨ててしまった。その時、何か困ったことがあれば、いつでも力になってやると約束してくれたことがあった。
「―」
卯吉が黙り込んだ。龍五郎が脅しにきた時、臆しもせずに堂々と渡り合った卯吉である。その卯吉を龍五郎ほどの男が〃本気で怒らせたら、怖え男だ〃と評したのだ。
以前、龍五郎がお璃久に〃想い者になるのなら、借金を返さなくても済むようにしてやる〃と言ったこともあるほどだ。卯吉にしてみれば、その龍五郎の力を借りることは、はなはだ不本意に相違ない。
だが、今回はそんなことは言っておれない。一刻も早くに手を打たなければ、富松は大番屋送りになってしまう。そうなってからでは、遅いのだ。何とか事が小さい中に、龍五郎の力で裏から今回の一件をもみ消して貰うように頼めないものだろうか。
お璃久はそう考えていた。
お璃久が懸命な眼で卯吉を見つめる。
卯吉の視線が動いた。
お璃久の腕の中で、しゃくり上げるお勝の姿を捉える。
しばしの静寂の後、卯吉がきっぱりと言った。
「判った。それは妙案かもしれねえ。俺から龍五郎親分に頼んでみよう」
卯吉は言い切ると、すぐに飛び出していった。
神田明神下の龍五郎の住まいは、意外なことに、ごく普通の小さな仕舞屋であった。
以前、お璃久がここへ一人で来て、〃ねこや〃の借金を帳消しにする代わりに自分が龍五郎の思いどおりになると言ったことがあった。
たとえ我が身を犠牲にしても、卯平と卯吉が守り続けてきた店〃いっぷく〃を守りたい、そんな必死の想いが龍五郎を動かしたのだ。
当時、卯吉とお璃久はまだ所帯を持つ前だった。
むろん、卯吉は龍五郎とお璃久の間のそんな行く立てを知らない。
表口で声をかけると、奥から手下らしい若い男が出てきた。以前、龍五郎について店に来た連中とはまた顔が違うようだ。
若い男は痩せぎすで眼付きが鋭く、到底堅気には見えない。卯吉が用向きを手短に告げると、男はいったん奥へ引っ込み、ほどなく姿を見せた。
「親分が入りなと言ってなさる、来な」
低い声で言って顎をしゃくる。
卯吉は男に案内されて、家の中へと上がった。
奥まった小座敷へ通されると、そこには龍五郎が腕組みをして座っていた。小さいながらも床の間があり、墨絵で描かれた達磨の掛け軸が掛かっている。
龍五郎は悠然と座り、少し手前に座した卯吉を値踏みするような眼で見ていた。
「どうした、若(わけ)えの。今日は俺に頼みがあって来たそうだな」
龍五郎が面白げに言う。
卯吉は真っすぐに龍五郎を見た。
龍五郎は四十を一つ、二つ越えていると聞いた。流石に大勢の子分を束ねているだけあって、座っているだけで威圧感がある。
卯吉は膝の上で組んで握りしめた拳に力を込めた。
「人を助けて貰いたい」
「ホウ」
龍五郎が鼻を鳴らした。
「名は富松、長崎の出島から出てきた。父親は外国人で、母親が日本人だ」
その言葉に、龍五郎が言った。
「混血児というやつか」
卯吉は頷いた。
「だが、どうしてその富松とやらを俺が助けなきゃならねえ」
龍五郎が右の人差し指で耳の裏をかいた。
完全に卯吉を馬鹿にしている口調である。
卯吉は唇を噛んだ。
「富松はキリシタンなんだ」
「なに―?」
龍五郎の眉が動いた。
「それで、喜八にしょっ引かれた」
龍五郎が黙り込んだ。
眼を閉じて、何事か考えているようだ。
「そいつはまた悪い奴に睨まれたな」
ややあって、龍五郎がポツリと呟いた。
「あいつはとにかく質が良くねえ。少しでも弱みを見せたら最後、骨の髄までむしゃぶり食おうとする。油断のならねえ野郎だ、できれば、俺もあんなマムシ野郎にはあんまり拘わり合いたくはねえわな」
極道の総元締といわれ、凶徒どもからも畏怖される龍五郎にこうまで言わしめる男である。富松を救い出すのは、至難の業のようであった。
喜八は金のある商家などを〃見回り〃と称して定期的に訪ねては、袖の下を貰っている。もし少しでもきな臭いようなことがあれば、必ず姿を見せる。番頭なぞは喜八の姿を見ただけで眉をひそめ、紙に包んだいくばくかの金を渡して一刻でも早く帰って貰おうと算段するのだった。
岡っ引きは同心などと違って奉行所に雇われているのではなく、十手を預けられた同心からいくらかの報酬を貰う。
が、その報酬はほんの小遣い程度で、生活の足しにもならない。従って、人の弱みを嗅ぎ回っては十手を鼻先でちらつかせ、半ば脅して〃口止め料〃をせしめるのだ。その金が岡っ引きの小遣いになるのである。
「お勝という七つになる娘が一人いる」
「その娘もしょっ引かれたのか?」
卯吉の言葉に、龍五郎の顔色が動いた。
「いや、娘は今、長屋にお璃久と一緒にいる。連れていかれたのは、父親の方だけだ」
卯吉は首を振った。
流石の喜八もお勝まではお縄にする気にはなれなかったのだろう。
「キリシタンか―」
龍五郎がもう一度独りごちた。
短い静寂が流れる。卯吉は固唾を呑んで、龍五郎の口許を見守った。〃諾〃と出るか、はたまた〃否〃と出るか、龍五郎のこれからの一言に富松の命運がかかっているのだ。
「駄目だな」
唐突に、龍五郎の無情な言葉が沈黙を破った。
卯吉が眼を見開いて、龍五郎を見つめる。
龍五郎は首を振った。
「大方、この話はお前の女房が言い出したことに違えねえ。できることなら、力を貸してやりてえが、いかにせん、話が難しすぎる。これが賭場で諍いを起こしたとか、どこぞの店で盗みを働いたとかいうのなら、何とでも片がつくが、キリシタンと来りゃあ、流石の俺も手が届かねえ。下手をすれば、こっちがコレものよ」
作品名:天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~ 作家名:東 めぐみ