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天の階(きざはし)~蒼穹のかなたに見たものは~

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「しかし、どんなときでも、他人を許すというのは難しいことです。自分一人のときなら、何とかやってこれましたが、娘を引き取ってからは、時に人を憎みそうになることが再々でしたね。自分はどんなに嘲られても構いませんが、娘が虐げられたりするのを見るのだけは、どうしても耐えがたかった。苛められて泣いている娘を見ると、私は娘を泣かせた人を危うく憎みそうになった。その度に、私は主に祈りました。罪深き私と、娘を泣かせたその人間を許し給えと一心に祈りました」
 富松は笑った。いつもの、あの儚い笑顔である。
「ある日、女郎屋の主人が私になにげなく言いました。お勝ももう数年したら、客を取るようになるだろう、さも嬉しげに言うのです。その時、私は本気で眼の前の男を殺してやろうかと思いました。そして、次の瞬間、愕然としたのです。私はやはり憎しみからは解き放たれていない。そのことに気づき、お勝を連れて、ひそかにそこを抜け出しました」
「そんな経緯(いきさつ)があったんですね」
 お璃久は今更ながらに、富松親子の歩いてきた茨の道を思った。
「でも、同じでした」
 唐突に富松が言う。お璃久はハッとして富松を見た。濃い緑色の眼が哀しみに揺れていた。
「江戸でもやはり、私たちは化け物と呼ばれ、蔑まれ、石を投げられる。所詮、どこへ行っても、私たちは他人の憎しみの対象でしかあり得ないのです。一体、私やお勝が何をしたというのでしょう。ただ外見が少し異なるだけで、まるで薄汚いものを見るような眼で見られなければならない。私の身体には半分の、お勝にはそれ以上に多くの、日本人の血が流れています。それでも、この国の人々は私たちを同じ日本人だとは認めてくれない。所詮、私たちにとって、この国―、いえ、この世には行き場がないのかもしれません」
 お璃久は、暗澹たる想いで富松の言葉を聞いた。
 人々の白い眼、冷淡な仕打ちから逃げるように江戸へ出てきた富松とお勝であった。江戸には日本各地から様々な人々が集まっている。大勢の人間に紛れ込んでひっそりと隠れるように生きてゆけば、苛められないと思ったのだ。
 が、実際は長崎と同じことだった。子どもは石を投げ、大人はその代わりに露骨に嫌な顔をする。
「時々、判らなくなりますよ。イエスのみ教えは、すべての人々は皆平等であると説いています。人を許すことが大切だとも聖書には書いてあります。けれど、この世の中には不平等や差別が当然のようにまかり通っている。そんな世の中を憎まないように生きてゆくのは、とても難しい。私は時として自分を見失いそうになることがあります」
 富松がひっそりと言った。
 お璃久の眼に熱いものが溢れた。
 いっときの憐憫の情なぞ、富松にとってはわずらわしいだけだとは判っていた。だが、当のお璃久にもその涙がどこから来ているものか、しかとは判らなかった。
 富松やお勝がこれまで受けてきた語るに尽くせぬ辛酸の数々へのものか、それとも、思うように任せぬこの世のからくりに対する哀しみの涙か。
 井戸端にひっそりと咲く紫陽花の濃い紫が涙でぼやけた。
 沈黙を破るように、富松が言った。
「長崎を離れる時、その伴天連にだけはこっそりと逢いにゆきました。その時、神父様がこれを下さったのです」
 富松が懐から大切そうに取り出したのは、ロザリオであった。ロザリオは、十字架のついた首飾りである。キリスト教の信仰を象徴するもので、祈りを唱える際に身につけたりする。
 眩しい初夏の陽光を受けて、十字架が光り輝く。まるで恋人に対するような愛情溢れる仕草で、富松は右手で握り締めたロザリオにそっと左手の人差し指で触れた。
 富松が笑顔で言った。
「泣かないで下さい。あなたが泣くと、私まで哀しくなります。あなたは心優しい人だ。私はあなたのような心清らかな女性(ひと)に逢えただけで、この江戸まではるばる逃れてきた意味があったのだと思っています」
 真摯な面持ちで言う富松の翠緑色の瞳はどこまでも清く澄んでいた。
 ガサッ。ふいに大きな物音がして、お璃久と富松はほぼ同時に振り返った。
 その視界に映じたのは、海老茶色の粗末な丈短な着物であった。お絹がいつもよくその着物を着ていることを、お璃久は知っていた。
 何かの枯れ葉をお絹が踏んだらしい。お絹は逃げるように一目散に駆けてゆき、その後ろ姿はすぐに角を曲がり見えなくなった。
「富松さん、外国人の多い長崎では切支丹も大目に見て貰えるのかもしれませんが、ここは江戸、将軍様のおひざ元です。ご公儀の詮議の眼もいっとう厳しいものがあります。あまり昼間から大っぴらに先刻のような話はしない方が良いかもしれません」
 お璃久は、小声で言った。
「判りました」
 富松が頷く。
 だが、それにしても、先ほどのお絹の走り去り様は、いかにも不自然だった。
―もしかしたら、あの子は先刻からの私たちの話をずっと聞いていたのではないだろうか。
 お璃久の中で嫌な予感が湧き上がった。
 お絹のあの、勝ち気そうな眼が蘇る。
 何事もなければ良いがと、お璃久は思った。しきりに胸騒ぎがしてならなかった。


    二

 それから後、お璃久はいったん店に戻り、いつもの時刻になって、長屋へ戻ってきた。
 が、家の中は真っ暗で、明かりもついていない。
 お璃久は表口で卯吉と顔を見合わせた。
「どこかへ出かけてるのかしら」
 お璃久が不安げな面持ちで卯吉を見た。
 だが、一歩外に出れば、人々の好奇の視線にさらされることは判っている。むやみに外出するとは考えられないし、ましてや、江戸に知り合いがいるはずもない父子である。
 卯吉が何も言わずに、腰高障子を開けた。
 狭い家の中は森閑として、物音一つ聞こえない。
 と、ミャ―と鳴き声を上げて、猫のしろがお璃久の足許にすり寄ってきた。
「しろ」
 お璃久が呼ぶと、しろが離れ、ついて来いというように後ろを振り返る。
 卯吉が先に入って、行灯に火を入れた。
 淡い光に部屋の中が浮かび上がる。
 片隅で膝を抱える少女が一人。
 その足許に他の二匹の猫が寄り添うようにして、丸くなっていた。
「お勝ちゃん」
 お璃久が声をかけると、お勝がゆるゆると顔を上げた。泣き腫らしたのか、眼が真っ赤だ。
「どうしたの、何かあったの?」
 問うと、お勝が泣きながらお璃久の胸に飛び込んできた。
「おとっつぁんが、おとっつぁんが」
 泣きじゃくるばかりで、一向に要領を得ない。
 傍らから、卯吉が言い聞せるように優しく言った。
「泣いてるばかりじゃ、判らねえぞ。一体、何があったんだ? 言ってみな」
 それでもまだお勝は泣いていたが、根気よく問い続けていると、やっとしゃくり上げる中から聞き取ることができた。
「連れていかれたの。怖い―おじさん」
 お勝の言うことを繋ぎ合わせると、どうやら、留守中に岡っ引きが来て、富松を番屋へ連れていったらしいのである。
 お璃久は卯吉に、昼間の富松とのやり取りを話した。また、その話をお絹が聞いていた可能性もあることも言い添えた。
 富松がご禁制のキリシタンであることに、卯吉はたいそう驚いていたが、浮かぬ顔で呟いた。
「そいつは、まずいな」