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白い部屋

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 パソコンに向かって、レポートの仕上げをしていた時のことだ。時計の針は午前二時をさし、家族は皆寝静まっていた。ふと、老人がパソコンを覗き込んでいるのが目の端に映り、、慌てて肩越しにそちらを振り向いた。が、当然誰もいるはずはない。気を取り直してパソコンに向き直ったのだが、またしても目の端を老人の顔が掠めたのだ。老人の息が感じられそうなほど近くに。知らない顔だった。深い皺の刻まれた、浅黒い肌をしていて、眉は太く濃いのに頭は禿げ上がっていた。私は指で目を擦り、もう一度、おそるおそる老人の方を振り向いたのだが、老人はやはりいない。それっきり老人は見えなくなったので、錯覚だったのだろうと思ったが、なんとなく肩の辺りがうすら寒いような感じがして、落ち着かなかった。



「それって老眼じゃない?」
 私の話は一刀のもとに切り捨てられた。
「歳を取って視野が狭くなってくると、見えないところを補おうとして、脳が勝手に見えないところの映像を作っちゃうって聞いたわ。老人ホームなんかでね、おばあちゃんが言うらしいの。『廊下に蛇がいたのに、職員は信じてくれないの』って」
 慌てて、フォローするかのように彼女は続ける。
「あなたの場合、疲れで一時的に視野が狭くなっていたのかもね」
 私は適当に相槌を打ち、コップの底に残っていた烏龍茶を飲み干した。
「それにね、健康な人間でも似たようなことをしているらしいわ。盲点って知ってるでしょう? 高校の生物の時間に習った……」
 私は頼りない記憶をたどって、それらしき単語を思い出した。確か、網膜にある一つの点だけは、まったく光を感じることができないらしい。
「両目の盲点は重ならないから、普通は盲点なんてあってもないようなものなのよね。じゃあ、片目で見たら盲点の空白が見えるかもしれないのに、実際に見えないのはどうしてか知ってる?」 
「どうしてなの?」
「脳が勝手に想像して、空白部分を描き足しているからよ」
彼女は続けて言った。
「つまり、私たちはそこだけ夢を見ているようなものなの」
 胡散臭そうな顔を私がしていたのだろう、いいわ、と彼女は小さくつぶやいた。
「盲点を見るのに好都合な実験があるの」
 彼女に促されて私は立ち上がった。
「相手から三メートルほど離れたところで、右目を閉じるの」
 私はユニットバスのドアの前に座った。彼女から大体三メートル弱離れている。彼女の言うとおり右目を閉じ、更に右手で目の上を覆った。
「そうして左目で相手の頭を見て、左目を右に動かしていくとね、盲点が相手の頭の上に来た時、頭が消えたように見えるのよ」
 私の左目には、白い壁の前で炬燵に座ってこちらを見ている彼女の顔が見える。その顔を見失わないように注意しながら、左目を右に動かした。今、私はひどい寄り目になっているだろう。
 目の端に彼女の頭が来た時、黒々とした短い髪が見えなくなった。見失ったかと思ってもう一度左目を動かす。すると壁紙の中から彼女の顔が現れた。そして再び寄り目になってみる。彼女がいるべきところには、まっ白な壁だけがあった。
「どう?」
 壁の中から彼女の声が聞こえた。 
「――あなたが消えたわ」
 寄り目のまま、壁に向かって答える。
「ちょっと気味が悪いわね」
 右目をあけると、彼女は三本目の缶を手に取っているところだった。炭酸の抜ける音に続いて、酒の匂いが部屋に漂う。
 炬燵に戻った私を、彼女は幾分ぼんやりした目つきで眺めた。
「酔っ払ってるでしょ」
「もちろんよ」
 缶を掲げて、彼女はとても酔っ払いとは思えない、綺麗な笑顔で微笑んだ。
「とても気分がいいわ」
 言って、缶を傾ける。仰け反った白い喉が酒を飲み干す様子を眺めながら、私は尋ねた。

「で、不思議体験はもうおしまい?」
 私の質問に、彼女は神妙な顔をして首を左右に振る。
「最後の話はね、まだ誰にも話したことがないのよね」
 彼女は唇を舐めて一呼吸置くと、話を始めた。
「一人暮らしを始める前のことよ。まだ学生で……、三年ぐらい前ね。その日私はすごく疲れていたから、化粧も落とさずにベッドに入って眠ったの」



 彼女は夢を見ていた。
途方もなく長い階段を駆け下りている。喉が痛み、血の味が微かにしていた。何をそんなに急いでいるのか分からない。とにかく、急いで階段を駆け下りて行く。
と、彼女はぎょっとして足を止めた。階段に白い足が横たわっているのだ。足は女のもののようだ。裸のつるりとした細いそれは、太腿から下しかなかった。ただ一対の白い足が階段の上に長々と存在している。飛び越えて行こうとして、彼女は背筋を凍らせた。彼女の向かう先、延々とその白い足が階段を埋めているのだ。……いや、足がそれぞれ複雑に組み合わさって階段を作っている。張りのあるきめの細かい肌が、どこからか差し込む光をはねかえし、ぬるりとした光を放っている――……
……――彼女は目を覚ました。
長い間走り続けていたかのように、心臓が脈打っていた。
 今何時だろうかと枕元に手を伸ばすと、携帯電話が手に触れた。取り上げて見てみると、電源が切れているのか、画面は真っ黒なままだ。
手探りで枕元にあるライトのスイッチを回す。カチリ、と音はしたものの、つかない。仕方なく、彼女は部屋の電灯をつけようとベッドから起き上がろうとした。
そして体の違和感に気付く。足が痺れたようになって動かない。腕の力で体を起こし、何とか床に足を付け、渾身の力で立ち上がった。足が萎えそうになるのを箪笥や机で体を支えて、部屋のドアまで進む。ドアノブに手をかけ……、
 ……彼女は目を覚ました。 
 夢だったのかと安心する一方、不快な痺れが手足にはある。体の不調が夢になったのだろうとぼんやりと考えた。よくあることだ。落下する夢を見て目覚めると、実際ベッドから落ちていた、というように。
 枕元に手を伸ばし、携帯電話を取り上げた。が、夢の中と同じく、画面は黒いままで何も映さない。ライトのスイッチを回すと、それは確かに音をたてて回った。しかし灯りはつかない。不自由な体を起こそうとするが、左膝にまったく力が入らない。しかたなく、痺れる右足だけで彼女は立ち上がった。すっきりと片付いた勉強机が目に留まる。机の上には電気スタンドが置いてあった。わずかな期待を込めて、机に近づきスイッチを押す。スイッチは音を立ててへこんだが、灯りはつかなかった。
 停電かもしれない。そう思った彼女は足を引きずって部屋を出た。カーテンの隙間から漏れ入る街灯の青白い光が、廊下を照らしている。念のため廊下の電灯もつけようとしたが、やはりつかない。壁にすがりつつ彼女は両親の寝室を目指した。いつもなら五、六歩で足りる距離が、ひどく長く感じられる。
彼女はドアを開けて部屋に入った。停電なのだから両親をを起こしても何にもならないが、妙な夢を見た後ではひとりでいるのは辛かった。
けれど、部屋に両親はおらず、ベッドは綺麗に整えられて誰かが寝ている様子は皆無だった。
そして、彼女は目を覚ました。
作品名:白い部屋 作家名:スエト