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白い部屋

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「変な夢って見たことない? 例えば、ものすごい怖い夢とか」
 缶酎ハイの残りをあおるように飲んで、彼女は言った。飲み干した缶を炬燵の白い天板に置くと、肘を付いて掌を頬に押し当てる。鮮やかな赤い口紅が缶のふちに残っている。目の色を見るとまだ正気を失ったわけではなさそうだが、その頬は上気して赤い。少しばかり酔っているらしかった。
「怪獣に追いかけられる夢とか?」
 そう言って、私はペットボトルに入った烏龍茶をコップに注ぐ。
「そうそう」
 軽く頷いて彼女は二つ目の缶を開けた。
 
 私たちは炬燵に向かい合って座り、久しぶりの再会を楽しんでいた。
 彼女は缶酎ハイを、私は烏龍茶を飲み、炬燵の上には落花生の入った袋が置いてある。
 久しぶりに会った彼女はふんわりとした短い髪をしていて、相変わらずその髪はペンキでも被ったかのように真っ黒だ。そして髪とは対照的に真っ白いセーターを着ていて、その白さはこの新築1Kの壁紙と同じだった。彼女がじっと動かないでいると、明るすぎる蛍光灯の光に照らされたセーターが壁紙に溶け、黒髪に縁取られた顔と時折前髪をかき上げる手だけが、そこにあるかのようにさえ見える。

「空を飛ぶ夢なら見るかな。ああ、でも、小さい時はちゃんと飛んでたけど、最近はどっちかっていうと泳いでるような感じで飛んでる」
 烏龍茶を注いだコップを持ち上げて、私は答えた。
 よくある話だ。現実から逃げ出したいと言う無意識の欲求が、空を飛ぶ夢となって現れると聞いたことがある。
「へぇ、いいじゃない。気持ちよさそう」
「それがけっこう必死でさ」
 夢の中で私は懸命に空を泳ぐ。
 手足をばたつかせて、出来損ないのバタフライのような感じで。そして必ず手足を電線に引っかけるのだ。真っ黒な電線はクモの糸のように張りめぐらされていて、より高く飛ぼうとする私を絡め採る。それでも私は電線を振りほどき、掻い潜り、糸と糸とのわずかなすき間を縫って、高く、遠くを目指して泳いでいく。
「でも、空気って水よりも抵抗が少ないから、水をかいて泳いでる時みたいな手ごたえがないの。漕いでも漕いでも進まなくって、だんだん沈んでいくのよね」
 しだいに地面が近づいてきて、そのうち、小学校低学年用のプールで泳いでいるような滑稽な状態になる。腹が地面にすれるその直前で、私は目を覚ます。
「それは、嫌ね」
 彼女は綺麗に描いた眉を寄せながら、酎ハイを一口飲んだ。
「あなたはどうなの?」
 私が聞くと、彼女は片頬を少し歪めて笑った。
「私のはね……夢って言えるのか、自分じゃちょっと分からないことならあるわ」
 


 彼女が、まだ四、五歳の子どもだった時のこと。小さな庭のある木造一戸建てに住んでいて、父親は単身赴任中。母と二人で二階のベッドで一緒に寝ていた。
 その夜も、そうして眠ったはずだった。
 しかし夜中に彼女が目覚めると、一階の居間のソファーで横になっていたのだ。
 夕飯を食べた後、そのまま眠ってしまったのだと彼女は冷静に考えた。たいして不思議なことではない、と。次に彼女は布団に入って眠らなくてはならないことを思い出して、ソファーから降りた。部屋の中は灯りが消えて暗かったが、自分の家なので見えなくてもあまり不自由はしない。手探りで壁を伝い、二階への階段を上った。そうして階段を上りきって……、彼女の記憶はそこで途切れる。



「これだけだったら、別になんでもないんだけどね」
「何かあるの?」
「もう一度、同じことがあったのよ」
 缶に付いた口紅の跡をこすり落としながら、彼女は続けた。



 ある夜、彼女はまた目を覚ました。今度は冷蔵庫の前で。冷蔵庫の扉を開けて立っていた。中にはその日の夕食で残った秋刀魚の塩焼きが一匹、白い皿に乗せられ、ラップをかけて置いてあった。
彼女は寝ぼけたのだろうと思い、もう一度眠るために台所を出て階段へと向かった。灯りはやはり消えていたものの、街灯の光りが窓から差し込んでいるらしく、薄ぼんやりと室内を照らしていた。そう暗くはない。
季節は秋だったから、素足に触れる台所の床がひどく冷たい。真夜中であるせいなのか、何の音も聞こえなかった。ただ、わずかに汗をかいた足の裏が床を蹴るたびに音をたてる。壁を伝って階段を上りきると、二階の廊下に置いてある古い黒電話が目に留まった。母親の眠っている寝室のドアは開け放されていて、そこから母親の立てる小さな鼾の音が聞こえる。



「そこから先を覚えてないの」
 そのままベッドへ横になったのか、それとも全て夢だったのか、分からないと彼女は言った。
「夢だったんじゃないの?」
 私の言葉に彼女は静かに頷くと、缶を傾けて酒を喉に流し込む。
「まだあるのよ。聞いて」
 と彼女は話しだした。



 彼女が小学生の頃の話だ。
彼女は給食を食べ終わると、教室を出て中庭へ向かった。午後から、社会科の授業が授業がそこで行われるからだ。中庭は教室を一回り大きくしたぐらいの広さがあり、人工芝が敷き詰められ、小さいながらもコンクリートで作られた舞台がある。舞台の後ろには卒業生たちの描いた壁画があった。コの字型の校舎に周りを囲まれながらも陽が当たり、けれど冷たい風の当たらないその場所は、春と秋、教室代わりに使われることもある。
 中庭は既にほとんどのクラスメイトたちが集まっていて、鬼ごっこをしている最中だった。夢中になって逃げ回る友人を呼び止めるのも気の毒に思われ、彼女は一人何気なく舞台へと上り、壁画を眺めた。壁画の中では、鮮やかなペンキで描かれた子供たちが気球に乗ったり、草原を駆け回っている。舞台に上がってきたクラスメイトたちは、楽しそうに笑い合いながら彼女の後ろを通り過ぎて行った。その気配を感じながら、彼女は目を閉じた。ゆっくりとまばたきをするようなつもりで。
 その間十秒に満たない。
 目を開けた時、あまりに周囲が静まり返っているので不思議に思い、彼女は後ろを振り返った。
 そこに並んだ全ての目が、彼女だけを見ていた。真っ黒な目、茶色がかった目、レンズ越しの目、糸のように細められた目……。きちんと体育座りをしたクラスメイトも、その脇に立っている教師も、みんな。彼女は慌てて舞台を降り、背の順に並ぶクラスメイトの間に一か所だけ空いている、自分の場所に座った。彼女が座ったのを見て、教師は「それでは授業を始めます」とだけ言った。



「立ったまま寝てたんでしょ」
 身も蓋もない私の意見に、彼女はシニカルな微笑を浮かべた。
「でも、それなら後でさんざんからかわれてるわ。でも誰も何も言わなかったの。授業中も、授業の後も」
「だったら夢だったのよ」
 彼女は何も言わずに落花生を一つつまみあげた。真珠に似た光沢をした、淡いピンク色の薄い爪が殻を割ると、パズルのピースがうまくはまった時のような音がする。 
「こんな話って、聞いていてもつまらないでしょう?」
 そうでもない、と答えておいて私も落花生の殻を割る。彼女が割った時のように心地良い音はせず、誤って虫を踏みつけたような音がした。
「そういえば」
 


 私にも妙な体験がある。
作品名:白い部屋 作家名:スエト