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毒のある果実

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 まるで、あいする男にするように。
 僕は母の奴隷だった。
 決して裏切ることのない、従順なペット。自分を飾り立て、周囲にひけらかすための装身具にすぎなかった。
 諒。艶をはらんだ声音で名前を呼ぶ。纏っていた衣がはら、と落ちる。
 ぬめりとした白い肌が、まとわりついてくる。

「……先生。僕は女の人が大嫌いです。なれなれしいくせに薄汚くて、ひどく打算的だ」

 それでも、好かれるんです。どうしてでしょうね。
 白々しさを感じさせるさっぱりとした口調で言う。

「魅力があるんだろ、そりゃ」
「随分あっさり言いますね。光栄ですけど」
「だって俺も惹かれてるからさ」
「―――」

 そんな引くなよ、と苦笑まじりの声が続く。だってお前、放っておけない表情するんだもん。そのまま見過ごしたらとんでもないことになりそうじゃん。
 からりと高杉は言った。

「俺はお前を、想っている」


**

 すべてが、スローモーションに見えた。

「……なんで」
「なんで、ってそりゃ俺はお前の先生だから」

 ドアが閉じる寸前のところで駆けこんできた男は、何のためらいもなく僕の隣に座った。淡い空色のシャツには汗が滲んでいる。
 高杉千雅。あだなはちーちゃん、ちかちゃん。それでも、れっきとした男。現役高校生の僕よりもずっと、高校生らしい顔をした教師の呼吸は荒い。
 僕はといえば夏場の全力疾走は身に堪えるんじゃないだろうか、と他人事じみた考えを抱いた。

「相変わらずへんな先生ですね」
「お前もな」

 ぽす、と頭の上に載せられる手のひらの重みに不意に泣きそうになった。
 高杉は僕を、弱くする。何も出来ない、何も決められなかった子どもの時間にまで巻き戻してしまう。
 何にも知らないくせに。吐き捨てるようにつぶやいたこの言葉も、口にした途端がきっぽく感じられて、どうしようもなくみじめになった。
 僕とあの人とのことは決して理解されない。可笑しなものだ、と分かっている。あの時間を共有した者でしか分かりえないことだから、誰にも打ち明けたりはしない。
 そう、決めていた。



『毒のある実はね、見た目ではそうと分からないのよ』

 耳元でささやくように、あの女は話す。確かに彼女の擬態は完璧だった。他の子どもの母親よりもずっと美しく、上辺だけの寛容さを、彼女の友人たちにそれとなく誇示している時は、あの薄暗い家の中での仕打ちなど無かったもののように感じられた。

『素敵なお母さんね』

 そう言われる度に、戦慄した。
 やはり、分からないのだ。と思った。濃い臙脂色に熟したその果実の美しさに目を奪われているだけの鑑賞者には。柔毛のあるやわらかな実に、歯を突き立てた者にしかその毒が感じられないのと同じように。
 限界だった。もう、堪え切れないと思った。
 子どもの尊厳が、とか。ぎゃくたい、とか。使い慣れない言葉で境遇を言い訳する能力は僕にはない。
 《村雨諒》にとって、あの女はどうあっても母親で、逃げることなんてできやしない。どこまででもあの声が、 あの手が。僕を追いかけ、責め、苛むのだろう。
 嬉々として毒を流し込む唇は、まるで紅い果実のように熟れている。
 だから僕は。
 僕は。
 母と、決別することにした。
 永久にわかりあえないひとから、永遠に別れることのできる、たったひとつの方法を試してみることに決めたのだ。
 これは逃避だ。身内から聞こえた声に、無駄と知りつつ耳をふさいで。




「村雨の都合なんか、俺は知らないし、分かんねーよ」
「だったら」

 どうして、と続く言葉を高杉は遮る。

「だから、だ」

 彼は、まっすぐな眸でこちらを見据えていた。ちり、と焦げ付きそうな熱をはらんだまなざしが、刺さる。膝の上で握った手に、長い指が触れる。胸で、何かが爆ぜる。

「お前は、何をするつもりなんだ」
「あなたになんか言うわけがない!」

 思わず声を荒げると、手で口を塞がれた。手のひらの皮は厚く、そしてかたかった。思わず頬に集中した熱に、戸惑う。

「こらこら。公共の場だぞ……落ち着いたか?」

 渋々頷いてみせれば、それでよし、と高杉は偉そうに言って解放してくれた。

「先生には関係ないでしょう、どうしてついて来たんですか? 授業中でしょう」

 時計を見るまでもなかった。
 こいつは、クラスの連中にどんなことを言って、どんな顔をして教室を飛び出して来たのだろう。僕が、無断で早退したというだけの理由で。
 僕相手に、そこまでする価値はないのに。
 自己卑下を延々と繰り返している自分と、自惚れたがっている自分が僕の中でせめぎ合う。

「そうだな、お前のせいだぞ。あとで色々怒られる」

 自習にしたせいでテスト範囲が終わらないかもしれない。そうしたら教務主任にいびられるんだ。冗談めかせて言った。

「次のバス停で降りれば、三時間目には間に合います」
「ああ、お前も一緒にな」

 ぐ、と痛いくらいの強さで手首を掴まれた。

「……っ、だから放っておいてくれと言っている!」

 高杉も今度は注意しなかった。

「それなら、俺を見なければ良かったんだ」

 冷たいナイフを首元に押しつけられた。そんな感覚を呼び寄越す、きんと凍えた声だった。快適だと思っていたバスの中が、外気と比べて異常なまでに冷やされていることを思い知る。
 僕は初めて、この男が怒っているところを見た。いつもはとろん、と丸みを帯びている大きな瞳は細められ、そこには鋭く激しい光が在る。
 知らない、ひとのようだった。

「声をかけても知らぬふりをして、出ていけば俺はこんな馬鹿な真似はしなかった。だけど村雨は、俺を見たじゃないか。いつもの、何かを求めているような眸で、俺を見たじゃないか」
「―――」
「本当に俺が要らないなら、はっきりそう言えよ。これ以上突き放されたら、さすがに俺もきついから」

 吐き出された溜息に胸がじく、と痛んだ。



『? 村雨、体調でも悪いのか』


 たった数分前の出来事。声をかけてきた高杉のことを、僕はどうしても無視できなかった。そこにいる、と知っていたから。
 唯一、僕の衝動を止めてくれるひとが、他でもない僕のことを見ていることを知っていたからだ。
 嘘で塗り固められた僕の虚像ではなくて、本当の僕を引き出してくれるひとが。一瞬の視線に込められたSOSのサインにすかさず気付いて、飛び出してくるようなひとが。
 後先考えず、目の前の僕のことだけを考えてくれるようなひとがいることを。

「そんな言い方、ずるいじゃないですか……」

 泣きそうになった僕を、高杉は笑った。

「―――ばぁか。大人っていうのはな、みんなずるいんだ」
 知らなかったのか。高杉はにやにやしながら、僕の頭をそっと撫でた。向けられた眸はやわらかく、緩んでいた。
 バスのアナウンスが降車を促している。
 行くぞ、と手を引かれて立ち上がる。
 冷房の効いたバスの中とは格段に違う、夏の日差しを身体に浴びる。真っ黒なアスファルトから立ち上る熱気にくらくらした。

『諒』
作品名:毒のある果実 作家名:鷹峰