毒のある果実
きっついなあ、とそれほど腹立たしくも無いような口ぶりで言うと、いきなり僕の手を掴んだ。
「は?」
「じゃじゃーん。先生からの呼び出しでーす」
抵抗しようかとも思ったが、ここで騒いでも人目につく。穏便に済ませるには、言うことを聞いた方が良いと判断しておとなしく従った。
「分かりました。分かりましたから、手を放して下さい」
「えー、だって村雨逃げるだろう?」
「逃げませんよ。子どもじゃないんですから」
それはそれで、つまらないなあと気の抜けた炭酸水みたいなことをぬかす男は、不意に強く握っていた力を弱めた。いつだって、その気になれば振りほどける。それくらいの強さだった。
放すも放さないもお前の自由。
そうやって、こちら側に選択の余地を残してくる。
「あんた変だよ」
ぼそりつぶやくと、お前ほどじゃねえよと返ってくる。ゆるい拘束に捕らわれたまま、渡り廊下を歩いた。
社会科資料室、とのプレートがかかった教室を開けると、ひんやりとした冷気が蒸し暑い廊下に流れ込んできた。一応、失礼しますと声をかけてみたが中には誰もいなかった。予想通りだ。
「この節電の時代にエアコン点けっ放しですか」
良いご身分ですね、と皮肉る。
「しょうがないだろう、暑いんだから。こまめに消した方が電気代あがるしね。それに食欲がなくなる」
「生徒たちは暑い中、弁当食べているんですけど」
「若いよな、お前らって。尊敬する」
都合のいい時だけ年寄りぶるな。と言いたいところだが、僕もこの涼しい部屋で休み時間を過ごすという恩恵を得られそうなので見逃してやることにする。
「他の先生たちは?」
当たり前だが、この部屋は高杉の専有ではない。他の社会科教師たちの控室にも兼ねているので、冷暖房設備があるのだが、村雨が此処を訪れる時、たいていこの男はひとりだ。
「あー、今日は職員室で鰻の出前取ったらしくて。そっちで食べてるんじゃないかな」
「……じゃあ、なんで先生は此処にいるんですか」
呆れたように言うと、川魚嫌いだから。という実にどうでもいい情報が手に入った。本当に、どうでもいい。
「ほんとずるいですね、教師って」
その声によっぽど実感がこもっているように聞こえたのか、高杉は笑った。
「おうよ。悔しかったらなってみな」
「やですよ、子どもの世話なんて。面倒なだけで利が少なすぎる」
「まあそう言うなって。いいもんだよ『先生』ってのも」
勧められた椅子に座ると、高杉は大きなリュックサックの中から、重箱を取りだした。
「何ですか、これ」
「何って、弁当?」
「それは分かりますけど……」
かぱ、と開けられた重の一段目にはぎっしりとおかずが敷き詰められている。ふんわり黄色のたまごやきに、からあげ。色鮮やかなブロッコリーとミニトマトのサラダの横には、タコを模したと思われるウィンナー。二段目には、つやつやと輝くおにぎりが、これまたぎゅうぎゅうに入っていた。
「高杉先生って、見かけによらず大食らいなんですね」
「そうそう、これくらいぺろっと……んなわけあるか」
ぱかりと、重箱のふたで僕の頭を叩いた。ノリツッコミをする人間なんて、実生活で見たのは初めてだ。
「ん」
おもむろに差しだされた割り箸を、呆けたように見つめる。
「えっと、食べても良いということでしょうか」
「他にどんな意味があんだよ」
いや、無いですけど。むしろ無いからこそ確認を取ったわけで。もごもご舌の上で言おうと思ったことが絡まって、何も喋れなかった。
変なのは僕の方だった。
「いただきます」の声につられて、手を合わせるとおかずへと箸を伸ばした。
「これ先生が作ったんですか」
「へへ、なかなかのものだろ? お嫁さんにしたくなっちゃう?」
「―――」
「頼む、黙らないでくれ。余計に悲しくなる」
味は悪くないどころか、美味しかった。ひとり身の男がこれだけ料理が上手いと、恋人は立つ瀬がないだろう。
「なあ、村雨」
「美味しいですよ、このたまごやき」
「―――それはどうも」
少し照れたように笑う。そうするとやけに幼く見えて、とても年上とは思えない。半袖の綿のシャツから伸びる腕は華奢で、なま白い。
『ねえ、諒』
ちか、と眼裏で紅いマニキュアの塗られた指先がひらめいた。ぞわと、背を這い上がる悪寒に身震いする。
『あなたはこんな程度じゃないわ、そうでしょう?』
「…―――村雨、村雨!」
暗がりから引き戻す、何者かの声にハッとする。
自分が何処にいるのかを見失った。
瞼を持ち上げると、目の前には心配そうな眸でこちらを見ている高杉がいた。壁にかけられた年表、無造作に床に放置された地球儀。此処は学校で、この部屋は社会科資料室だ。
あのひとは、いない。
深く安堵の息をもらすと、高杉と視線がぶつかった。
「……吐き出したいことは?」
「いえ、特に」
額に滲んだ汗を指で拭いながら答える。
聞きたいですか、と不敵に笑って見せると、お前が話したいのなら、と返ってくる。相変わらず、変な教師。
クラスメイト相手に必死で取り繕っている外面を、高杉には見せようとさえ思えない。むしろ被っている猫を目のつかない場所に隠しておきたいような気さえしてしまう。
自分を良く見せなくては、という余計な力が入らない。良くも悪くも素の自分で向き合いたい、と考えていることに気がつく。
「母親が言うには、僕は父に良く似ているそうです」
「へえ、整った顔の親子なんだろうなあ」
蒸発しました。そう言うと、高杉の表情が強張った。
「僕が小学校に上がる前の頃だと言っていました。それ以来、僕はあの人とずっとふたりで暮しています」
僕に父親がいない、ということは学校に提出した書類で知っていたことはずだ。詳しい事情など書かないから、驚くのも当然なのかもしれない。
女つくって家から逃げ出しました。なんて、書類に記入する欄がない。
「母親は息子に言いました。『あんな男にはならないで、絶対に私を裏切らないで』。そうやって僕は、躾けられました」
諒、と呼ぶ声にぞっとするようになったのは、いつだろう。
「あの人の欲望は、きりがありません」
小学校の頃、僕は算数が苦手だった。
それでも、八十点より下の点数を取ったことがなかった僕が初めてそのボーダーラインを下回り、七十二点を取った時。あのひとは、泣いた。
僕がひどい点数を取ったのは、父親のせいだと。いもしない男のことをひとしきり罵った挙句、あんたなんかいなければ良かったのにと叫んだ。よりにもよって、そんなにそっくりな顔になんて生まれてくるんじゃない。僕の耳を思い切り引っ張った。
以来、何かがふっきれたのか。些細なことで僕を、声を荒げて叱りつけるようになった。
帰ってくるのが遅かった。
運動会のリレーで一位になれなかった。
初めての彼女が出来た。
『本当に、あいつそっくり。女にだらしないったら!』
さんざん僕を打っておいて、しおらしくごめんなさいと謝ってくる。ごめんね、諒。私、どうかしていたわ。とがった爪で頬をなぞり、そっと唇を寄せる。