毒のある果実
窓辺で白くて清潔なカーテンが、楽しそうに揺れていた。
窓から侵入してくる生ぬるい風を受けながら、退屈な授業は僕の与り知らぬところで動き続ける。
高杉の声がやけに遠くで聞こえている。まるで何か薄い膜みたいなものが僕の周りにあって、それを通した向こう側に何もかもがあるような感じだ。
何気なく手にしているシャープペンシルも、指先でいじくっていたノートの端も、どこかふわふわとしていてまるで現実味がない。触れているようには思えない。
これは何の授業なんだったっけ。不意にそんなことを思う。視線を右に動かしてみると、学生たちとあまり大差ない童顔の教師がにこにこしながらチョークを握っているのが眼に入った。そうか、高杉がいるのだから、これは日本史の授業だ。黒板の上にはつらつらと、歴代の徳川将軍の名前が挙げられていく。
びゅおお、と教室内を突きぬけるような風が長めの前髪を掻き上げた。窓を閉めると暑いので閉めないのだけれど、肌を焦がすような熱風は僕に容赦がない。
夏場の窓際はあまり歓迎すべき座席ではないな、と思った。クーラーのないこの教室で一番、涼を取れるのは担任教師が人気取りで持ってきた扇風機の前だ。どうせなら、クーラーを設置してくれと思わないでもないが、そこまでを要求するのは薄給の新任教師には酷だろう。
カーテンの隙間に広がる綺麗な青空。描かれていく夏模様を、何気なく目で追いかける。
そろそろ頃合いかな、という気がした。
無言のまま、椅子を引いて席を立った。
「? 村雨、どうした。体調でも悪いのか」
「―――」
のんきに声をかけてきた高杉を一瞥すると、開きっぱなしの前の戸から部屋を出ていく。クラスメイト達のざわめきを背後に感じながら、迷いなく階段を下りる。
同じくらい、迷いのない手で僕は、あの細い首にロープをかける。すやすやと眠っている彼女を起こさないように気をつけながら、数秒後には思いっきり絞めることになるそれを、醒めた目で見下ろす。
靴に履き替えて、昇降口を出ると真昼の太陽が肌を焼いた。手でかさをつくり、そのぎらぎらとした光源と、その居場所を見上げた。じじじ、と蝉の鳴く声が聞こえている。
開いていた手を、ぐっと握りしめる。大丈夫だ。出来る。何度か言い聞かせているうちに駅方向へのバスがやってきた。冷房の効いたバスの中は、外とは格段の温度差がある。ステップを上り、ICカードをかざす。
時間帯が微妙だっただけに、僕の他に客は数人しかいなかった。いつもは一人掛けの座席を選ぶところだけれど、ゆったりとした二人掛けの方に腰を下ろし、隣に鞄を置いた。
駅前からまたバスを乗り継いで、家に帰るまでには少なくとも三十分以上はかかる。これからすることを思うと、どっと疲れが押し寄せてきて、重くなった瞼をそのまま自由にさせておいた。
「諒」
ちかちかとした昼の光の存在を感じる、擬似的な暗闇の中、にゅ、と白々とした手が伸びて僕の身体を撫でる。ただのまぼろしと分かっていても、ぞっと震える背筋。何度も何度も同じことを繰り返す、堂々巡りの会話。きぃん、と頭を痺れさせる、あのヒステリックな呼び声が鮮やかに蘇る。
この苦しみは、誰にも分かってもらえない。誰にも救ってなど貰えない。罪に問われるのは僕で、他の誰でもない。僕は限りなく冷静な頭で何度も何度も考えた。そして結論を出した。
僕は今日、あの女を殺す。
**
「村雨くん」
休み時間、声をかけてきたのは隣の席に座っている女生徒だった。読みかけていた本に栞を挟むと、彼女の方へ向き直る。
「ごめんね、読書の邪魔しちゃったかな」
「そんなことないよ、宮田さん。気にしないで」
分かっているのなら声をかけるな、と心の中で悪態を吐きながらも浮かべた表情は文句なしの笑顔だ。僕は、昔から人当たりの良さには自信がある。そうやって、躾けられた。
僕の言葉に安心したように、彼女は話をし始めた。
「あのね、今度クラスのみんなで文化祭の打ち上げをやることになったんだけど」
「へえ、そうなんだ」
話が読めてきた。そういえば彼女は、文化祭委員なる面倒な仕事をすすんで引き受けていたんだっけか。夏休みの後半をかけて準備をした甲斐あってか、「お化け屋敷」はなかなか評判が良かった。
僕はと言えば、準備の参加率の低さを理由に問答無用で役割が振り分けられていたため、「これ着て、お客さん呼んできて」と手渡された衣装を着て、廊下をうろうろしただけだった。要するに、この出し物の繁盛への貢献度は低い。
すまなそうな声音をつくってやんわりそう言うと、彼女は大きく両手を振ってそんなことないよ、と宮田は叫んだ。サッと、彼女に注目が集まる。声の大きさに気付いたらしい頬を赤らめて、俯き加減につぶやいた。
そんなことない、村雨くんのおかげだよ。
「そう? ちょっぴり恥ずかしかったけど、皆のためになったなら良かった」
優等生的な回答に宮田はホッとした様子だった。クラスにおける信用とかそういった類の何かを獲得できるのであれば、時代遅れの吸血鬼コスチュームを着た甲斐があった。確かにそう思う。
だからといって、興味も関心も無い奴らとのどんちゃん騒ぎにまでつきあうつもりはないのだけれど。
「明日の夕方に駅前のカラオケでやる予定なんだけど、無理かな?」
ううん、と少しだけ考えるような素振りを見せた僕に、祈るようなまなざしを向ける。関心の欠片も無いのに、有るように装うのはなかなか骨が折れた。
「ごめん、行けたらいいんだけど。母がいま、病気で」
え、と宮田が言葉を呑み込んだのが感じられた。
「母が病気で」。僕はこの手の言い訳を良く使う。あの人が患っているのは嘘ではないし、真っ先に帰宅しないと機嫌を損ねてしまうのも本当。欠片ほどしかない僕の良心にもほとんど傷がつかない、都合の良い理由だった。マザコンだと噂が立ったとしても、別に構わない。ただの僻みだと知っているからだ。
「そうなんだ、こっちこそゴメンね。大変な時に誘っちゃって、無神経だよね」
「全然。ありがとう、誘ってくれて嬉しかった」
女は嫌いだ。
自分で自分のことを卑下するくせして、フォローしてくれるのを内心期待している。自己本位な理屈で物事を回していく生きもの。だけど、とても扱いやすい単純な動物。
「―――また今度、ふたりだけで会おうよ」
低めた声で囁くように言えば、簡単に転げ落ちてくる。
昼休み、購買にパンを買いに行く途中で高杉に捕まった。
「げ」
「お前ってさ、心の底から嫌そうな顔するよな」
苦笑まじりの声で彼は言う。
高杉千雅、二十三歳。こんな名前でも性別は男。学生服を着て男子生徒の群れの中に飛び込んだとしても、絶対にバレないだろう神秘的な容姿の持ち主。
我がクラスの担任でもある日本史教員は、女の子みたいな、大きくてまるい瞳で僕を見ていた。
「おっさんに声かけられて、喜ぶような趣味がないので」
「お言葉ですがね、村雨くん。俺はまだ二十代なの、しかも前半なの」
「高校生にとって二十超えれば、みなおやじですよ」