スピカ
目の前が歪んだ時、もう駄目だと思った。きゅっと渡せなかったものを引き寄せて抱きしめる。ぽろぽろと堰を切ったようにあふれてくる涙を止めることが出来ない。なにやってんだよもう、恥ずかしいなあ。高校生にもなって外で泣いちゃったりして。
その時、頼りなげなホームの電灯が少しだけ翳った。
ああ、他に誰かいたのか。やだな、泣いているのがばれてしまう。目の前に立った人物と目を合わせる前に、慌ててコートの袖で涙を拭おうとする。咄嗟に動いた手を、掴まれた。
しばらくの間、自分が何をされているのか分からなかった。
縫いとめられたように、動けないでいる。
間近に迫った顔が誰のものなのか、意識する時間さえ与えられなかった。
重ねられた唇は、冷たかった。
***
「な、にを…?」
「あー…っと、ごめん。つい、ね」
はは、と苦笑で答えるしかない。
息がかかるほどの距離にいる理由とか。
今、大地が二度目のキスをしようとしている言い訳とか。
「ごめんね」
そう言って、眦からこぼれ落ちそうになった涙を、止める。
凍えた唇に、瞼に。触れるだけのくちづけを落とすと、彼女はぼんやりとそれを受け入れた。自分に何が起きているのかもわかっていない、という様子に罪悪感めいたものをおぼえる。
どうして。
訊ねられたとして、上手く応えられる自信などない。なんとなく、そうしなくてはと思った。それだけ、なのだから。
少しだけ落ち着いたような雰囲気の、彼女の横に腰を下ろす。ちょっと図々しいかなとも思ったけれど、それ以上のことを大地はしてしまっている。よくよく考えるまでもなく、最低なことをやってしまったのは分かっていた。
自分でも意味が分からない。ただ、したいと思った。このまま何もしないでいたら、あの子は溶けてなくなってしまうような気がした。
うさぎはうさぎでも、雪うさぎなのかもしれない。真っ赤な目は南天で、なんてことを考えていた時に、「あの」と遠慮がちに発せられた声で、沈黙は破られた。
「……どうして、こんな時間まで残っていたんですか?」
意表をつく質問に戸惑いながらも返事をする。
「俺、三年で、第一志望の受験日が明後日なんだ。せっかくだし? 先生にぎりぎりまで分かんないところ教わっとこうと思って。結局、もう下校時刻だからって追い出されるまで粘っちゃったよ」
ていうか、君もだよね。なんとなく放った言葉に、彼女は少しだけうろたえたように見えた。
「危ないよ? 女の子なんだから、気をつけないとね。って説教くさいかな、そもそも俺が言えた口じゃないし」
「…はい」
「ねえ、それどれに対しての『はい』?」
「え! いやあの、了解しましたの『はい』、です」
あわあわと見るからに動揺した彼女に、冗談だよと笑って伝えた。流れる空気がわずかに和らいだことに、ほっとした。目の周りがまだ赤いけれど、もう涙はこぼれない。やり方はあまり誉められたものではないとしても、結果おーらいという奴だろう。と言ったら生真面目な友人に殴られそうだが。
「あの、」
「そういえば今日って二月十四日だったんだ? 俺、すっかり忘れてたよ」
遮るようにして言った大地に、彼女は怯んだようだった。我ながら若干無理のある話の持っていき方だ。
「登校するってこと周りに言ってなかったから、誰にも貰えなかったなあ。高校最後のバレンタインなのに寂しいよね。そう思わない?」
紙袋が、腕の中でくしゃりと音を立てる。
「あーあ、義理でも良いから、誰かくれないかな」
そしたら俺、絶対今日のこと忘れないのに。
「あの、ですね!」
今度は彼女が大地の話を遮る番だった。
***
卒業式の後、桜の木の下で待っています。そんな手紙を彼の机の中に入れたのは私だったのに。彼が先に来ているとは計算外だった。文庫本をめくりながら、幹にもたれかかっている様はとても絵になる。もう少し、数週間あとならば、きっと桜の花も見ごろだっただろう。
「こうして話をするのは、あの雪の日以来だよね」
「すみませ、遅れ…てしまって」
走ったせいで息切れしてしまっている。正真正銘、最後の機会だというのに恰好がつかない。
「走らなくても良かったのに。…頼ちゃん」
本を閉じ、微笑む。
東雲、大地先輩。
名前を憶えていてくれたのか、と思うとそれだけで胸がいっぱいになった。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
「それと合格もおめでとうございます。由貴にぃに聞きました」
「あはは、ありがと。あいつ、君に何か言ってたんじゃない?」
「えっと……『また四年間、東雲の世話係かと思うと涙が出てくる』って」
「じゃあ、今度会った時『それ喜びの涙だよな?』って念押ししておいて」
そもそも東雲先輩の方が先に、卒業式後のクラスの集まりとかで会うのでは。と指摘すると、「俺そういうの行かないから」とすぱっと切り捨てた。
「本気で繋がっていたい連中とは、俺の方から連絡取るし、由貴とは結局大学も学部も同じだから別れを惜しむまでもない。参加しても楽しめないんだよね。どうでもいい奴らのことなんて、すぐに忘れる。…そんなのに使う時間が有ったら引越しの準備をするよ」
先輩の言葉は辛辣にきこえたけれど、誰にとってもそれが本音なのだと思う。胸を裂かれるような想いに、私はまたあの時と同じように怯む。
「……ちゃんと、俺の言ったことの意味分かってるよね?」
「え?」
「俺は、ここにいる。その意味をちゃんと考えて」
先輩の言葉は矢だ。
狙いを定めて放たれた一本が確実に、私を射抜く。
「あの時、東雲先輩に渡したチョコレートは『本命』でした」
「食べて、分かったよ。すごく美味しかった」
思い出すようにして、彼は目を瞑る。その一瞬の隙をついて、今すぐこの場から逃げ出してしまえたら。だけど、それは絶対にやってはいけないことだ。
東雲先輩は、今、私の目の前にいるのだから。
「ありがとう、ございます」
「こちらこそ、ごちそうさまでした。奇しくも今日から数日後にはホワイトデーというイベントが有るんだけどね、何か欲しいものとかありますか?」
「……いえ、今こうしてお話をしていてくれるだけで十分です。先輩の時間を、私は貰いましたから」
声が震える。苦しい。どうしよう、何を言えばいいのだろう。
もうこの人には会えないのに。
言わなきゃいけないことや、言いたいことは山のようにあるはずなのに。思うようには言葉にならない。
「―――好き、なんです…っ、貴方のことがすごく私は好きだった」
「そっか、それはどうして? って聞いても構わない?」
「だって、先輩は優しくて…」
「俺、女の子には、誰にだって優しいと思うよ? 頼ちゃんは由貴の大事な妹みたいなもんだからね、少し甘かったかもしれないけど」
「か、恰好よくて」
「見た目? それこそたいしたもんじゃないよ。俺だったら、由貴の方を選ぶなあ。あいつは外面っていうものがないし、信頼できる。ねえ、ちゃんと答えて。どうして『俺』なの?」