スピカ
満開の桜の木の下で、あのひとは微笑んでいる。
差し伸べられたれた手を掴めばきっと、ここではないどこかへ連れて行ってくれる。そんな気がした。でもきっと私は、彼の手に触れることすらできないと知っている。
ただ、綺麗だと。
溜息を吐きながら見ていることしか、私にはできない。
***
『…が…お客さまには…』
頭上の旧型スピーカーから流れだした、割れた声。
嫌な予感しかしないものの、ただ、それを明瞭に聞くだけのためにヘッドフォンを外した。予想通りの悪い知らせに、大地は眉を思いっきりひそめた。
下校時間はとうに過ぎているせいか、普段は学生であふれかえるホームに人気はなかった。吹きすさぶ雪まじりの風が頬を叩いている。マフラーの中に顎からすっぽり口元を沈めてはみるものの、それくらいで緩和するくらいの寒さならば、電車は三十分も遅れることはないはずだろう。
「さっむいし」
吐き出した息が白く宙を染めていく。このままだと世界はこの色で塗りつぶされてしまうんじゃないか、と徐々にかさを増していく雪を見ながら思う。まあ、それも悪くはない。
せめてもの防寒に、とヘッドフォンを戻そうとしたとき、
「…っは、くしゅん」
そこでようやく、大地は自分と同じ境遇にいる人間がいたことに気が付いた。ちらりと視線を音源に向けると、古びたベンチに誰かが座っているのが目に入る。
凍りつきそうだった足が、つ、と引き寄せられるようにして動いた。
紺色のピーコートからのぞくスカートのチェック柄は、予想通りうちの高校のものだ。真っ白なソックスとスカートの間のむき出しになった肌を見る度に、女の子って大変だなと思う。
貴重なお御足を拝見している側としては問題ないし、むしろもっとやれという気分ではある。だけど、こういう寒い日の夕方、雪なんかちらついていたりなんかすると、ちょっと痛々しい。
「……え?」
べつにいやらしい気持ちがあったとか、そういうのではない。と、一応弁解だけはしてみる。ただ、そのほんのり赤くなった膝から目線を上げていった結果、ただ偶然。見えてしまったのだ。目に入って、しまったのだ。
思わずもれた言葉に彼女は何の反応も見せなかった。隣にちょこんと座っていた紙袋をそっと持ち上げ、抱きしめた。小さな肩が小刻みに震えている。
彼女は、静かに泣いていた。
嗚咽を上げることもなく涙をこぼし続ける姿は、なんとなくうさぎに似ている。滅多なことでは鳴かないうさぎ。でも、この子を泣くほど動揺させたのだから、「滅多なこと」ではあると思うのだけれど。
ぽたぽたと流れ落ちる涙が、飾り気のない茶色の紙袋に染みを作る。
見ていられない、と思った時には身体の方が先に動いていた。
***
満開どころか未だ硬い蕾ばかりの桜の木の下へ、近くに植わっていた梅の花が風に散らされて運ばれる。薄いピンクの花が舞い落ちる様は、いつか見た景色と似ている気がした。
風になびく髪を押さえながら、フラッシュバックする冬の日の情景に口元がわずかに緩む。
二月十四日。
私が、最後の勝負をしようと思った日。
どこにいるのだろう。
校内をあてもなくさまよう。静まりかえった廊下は、まるで冷蔵庫の中みたいに冷え冷えとした空気が充満していた。ぱたぱたと上靴で走る、軽い音だけがこだましている。心細くて、思わず泣きそうになった。
勇気を出して訊ねた東雲先輩の行方は、彼の友人である由貴にも分からなかった。
「ごめんな、頼。あいつ本当にわけわからん奴だからさ」
「ううん、いいの。由貴にぃこそ…明後日入試なんでしょう?」
ごめんね、と言いかけた私を由貴は止める。かるく叩くようにして頭に触れた。
「ばっか、遠慮するんじゃないよ。自由登校だからって、家に引きこもるのは性に合わないしな。それに」
見てみろよ、と見慣れないトートバッグを指し示した。あれ、普段はサブバッグなんて持ち歩かないのに。目に入ったうさぎのマスコットに噴き出しそうになった。似合わないにも程が有る。
「…なに笑ってんだよ」
「だって、ミッフィー…」
「な、違、これは妹の鞄を借りただけで」
「有沙ちゃんの?」
そう言われてみれば見覚えがあるような気がする。まだ小学生の彼の妹は、うさぎのキャラクターに弱い。このマスコットも、彼女の誕生日に私が贈ったものだったと思い出す。
いいから見ろよ、と促され、鞄の中を覗き込む。
「わあ、いっぱいだね」
「だろ?」
「でも、この中に本命はいくつあるの」
「………お前、さらりとキツいことを」
苦い顔をした由貴に、私は紙袋から小さな包みを取り出して渡す。
「…じゃあ、これはどっちだよ?」
「聞くまでもないじゃない。でも、一応は手作りだよ。有沙ちゃんと一緒に食べてください」
さんきゅ、と少しだけ凝ったラッピングをしたお菓子を受け取ってくれる。その由貴の柔らかなまなざしに、私はいつも甘えている。
頑張れよ、の言葉に頷くと、彼に背を向けて走り出した。
幼なじみの少女を見送ると、由貴は淡いピンクの包みをトートバッグに入れようか迷って、結局やめた。
「明日会ったら、東雲のやろー、まじでぶっころす」
そうして、どうしようもない友人に向かって毒を吐く。
神様が邪魔をしているんじゃないか、と思った。
心当たりの場所は全部行った。図書室も職員室も三年生の全教室も、クラブ棟も、屋上も。でもどこにもあのひとはいなくて。気が付いたら下校時刻を告げる放送が流れていた。それでも諦めきれなくて、うろうろしているところを先生に見つかって追い出された。
校庭は積もり始めた雪で白く染まっている。さくさくと踏みしめながら、身体の中心からこみ上げてくるものを必死で押しとどめた。
「私、ほんとばか」
去年だってチャンスはあったのに。今日でなくても先輩に想いを伝える機会なんて、いくらでもあったはずなのに。
私は怠けた。
こんな時期まで、彼と知り合う努力さえしなかった。
一方的に知っているだけの恋情なんて迷惑以外のなにものでもないだろうに、彼が由貴と一緒にいるときにちょっと挨拶をしてみるのが、せいいっぱいで。
泣いちゃ駄目だ。
鼻の奥がつんとする。何度も何度も、言い聞かせるようにして駅に向かう。
前の電車が出たばかりなのか、ホームに人影はなかった。本数もさほど多くはない線なのに。溜息が出る。二十分ぐらい待てばいいだろうか、腕時計を見ながらのろのろと冷えたベンチに腰を下ろした。
『大変ご迷惑をおかけしますが』
それからしばらく経って。降ってきたのは、冷え切った身体に追い打ちをかけるようなアナウンス。ちっとも申し訳なさそうに聞こえないふてぶてしい声に腹が立つ。あと三十分? ふざけるな。
くしゃみをしながら心の中で悪態を吐く。
でも本当は分かっている。悪いのは神様でも、先輩でも他の誰でもなくて。
私。
「ばっかじゃん」
差し伸べられたれた手を掴めばきっと、ここではないどこかへ連れて行ってくれる。そんな気がした。でもきっと私は、彼の手に触れることすらできないと知っている。
ただ、綺麗だと。
溜息を吐きながら見ていることしか、私にはできない。
***
『…が…お客さまには…』
頭上の旧型スピーカーから流れだした、割れた声。
嫌な予感しかしないものの、ただ、それを明瞭に聞くだけのためにヘッドフォンを外した。予想通りの悪い知らせに、大地は眉を思いっきりひそめた。
下校時間はとうに過ぎているせいか、普段は学生であふれかえるホームに人気はなかった。吹きすさぶ雪まじりの風が頬を叩いている。マフラーの中に顎からすっぽり口元を沈めてはみるものの、それくらいで緩和するくらいの寒さならば、電車は三十分も遅れることはないはずだろう。
「さっむいし」
吐き出した息が白く宙を染めていく。このままだと世界はこの色で塗りつぶされてしまうんじゃないか、と徐々にかさを増していく雪を見ながら思う。まあ、それも悪くはない。
せめてもの防寒に、とヘッドフォンを戻そうとしたとき、
「…っは、くしゅん」
そこでようやく、大地は自分と同じ境遇にいる人間がいたことに気が付いた。ちらりと視線を音源に向けると、古びたベンチに誰かが座っているのが目に入る。
凍りつきそうだった足が、つ、と引き寄せられるようにして動いた。
紺色のピーコートからのぞくスカートのチェック柄は、予想通りうちの高校のものだ。真っ白なソックスとスカートの間のむき出しになった肌を見る度に、女の子って大変だなと思う。
貴重なお御足を拝見している側としては問題ないし、むしろもっとやれという気分ではある。だけど、こういう寒い日の夕方、雪なんかちらついていたりなんかすると、ちょっと痛々しい。
「……え?」
べつにいやらしい気持ちがあったとか、そういうのではない。と、一応弁解だけはしてみる。ただ、そのほんのり赤くなった膝から目線を上げていった結果、ただ偶然。見えてしまったのだ。目に入って、しまったのだ。
思わずもれた言葉に彼女は何の反応も見せなかった。隣にちょこんと座っていた紙袋をそっと持ち上げ、抱きしめた。小さな肩が小刻みに震えている。
彼女は、静かに泣いていた。
嗚咽を上げることもなく涙をこぼし続ける姿は、なんとなくうさぎに似ている。滅多なことでは鳴かないうさぎ。でも、この子を泣くほど動揺させたのだから、「滅多なこと」ではあると思うのだけれど。
ぽたぽたと流れ落ちる涙が、飾り気のない茶色の紙袋に染みを作る。
見ていられない、と思った時には身体の方が先に動いていた。
***
満開どころか未だ硬い蕾ばかりの桜の木の下へ、近くに植わっていた梅の花が風に散らされて運ばれる。薄いピンクの花が舞い落ちる様は、いつか見た景色と似ている気がした。
風になびく髪を押さえながら、フラッシュバックする冬の日の情景に口元がわずかに緩む。
二月十四日。
私が、最後の勝負をしようと思った日。
どこにいるのだろう。
校内をあてもなくさまよう。静まりかえった廊下は、まるで冷蔵庫の中みたいに冷え冷えとした空気が充満していた。ぱたぱたと上靴で走る、軽い音だけがこだましている。心細くて、思わず泣きそうになった。
勇気を出して訊ねた東雲先輩の行方は、彼の友人である由貴にも分からなかった。
「ごめんな、頼。あいつ本当にわけわからん奴だからさ」
「ううん、いいの。由貴にぃこそ…明後日入試なんでしょう?」
ごめんね、と言いかけた私を由貴は止める。かるく叩くようにして頭に触れた。
「ばっか、遠慮するんじゃないよ。自由登校だからって、家に引きこもるのは性に合わないしな。それに」
見てみろよ、と見慣れないトートバッグを指し示した。あれ、普段はサブバッグなんて持ち歩かないのに。目に入ったうさぎのマスコットに噴き出しそうになった。似合わないにも程が有る。
「…なに笑ってんだよ」
「だって、ミッフィー…」
「な、違、これは妹の鞄を借りただけで」
「有沙ちゃんの?」
そう言われてみれば見覚えがあるような気がする。まだ小学生の彼の妹は、うさぎのキャラクターに弱い。このマスコットも、彼女の誕生日に私が贈ったものだったと思い出す。
いいから見ろよ、と促され、鞄の中を覗き込む。
「わあ、いっぱいだね」
「だろ?」
「でも、この中に本命はいくつあるの」
「………お前、さらりとキツいことを」
苦い顔をした由貴に、私は紙袋から小さな包みを取り出して渡す。
「…じゃあ、これはどっちだよ?」
「聞くまでもないじゃない。でも、一応は手作りだよ。有沙ちゃんと一緒に食べてください」
さんきゅ、と少しだけ凝ったラッピングをしたお菓子を受け取ってくれる。その由貴の柔らかなまなざしに、私はいつも甘えている。
頑張れよ、の言葉に頷くと、彼に背を向けて走り出した。
幼なじみの少女を見送ると、由貴は淡いピンクの包みをトートバッグに入れようか迷って、結局やめた。
「明日会ったら、東雲のやろー、まじでぶっころす」
そうして、どうしようもない友人に向かって毒を吐く。
神様が邪魔をしているんじゃないか、と思った。
心当たりの場所は全部行った。図書室も職員室も三年生の全教室も、クラブ棟も、屋上も。でもどこにもあのひとはいなくて。気が付いたら下校時刻を告げる放送が流れていた。それでも諦めきれなくて、うろうろしているところを先生に見つかって追い出された。
校庭は積もり始めた雪で白く染まっている。さくさくと踏みしめながら、身体の中心からこみ上げてくるものを必死で押しとどめた。
「私、ほんとばか」
去年だってチャンスはあったのに。今日でなくても先輩に想いを伝える機会なんて、いくらでもあったはずなのに。
私は怠けた。
こんな時期まで、彼と知り合う努力さえしなかった。
一方的に知っているだけの恋情なんて迷惑以外のなにものでもないだろうに、彼が由貴と一緒にいるときにちょっと挨拶をしてみるのが、せいいっぱいで。
泣いちゃ駄目だ。
鼻の奥がつんとする。何度も何度も、言い聞かせるようにして駅に向かう。
前の電車が出たばかりなのか、ホームに人影はなかった。本数もさほど多くはない線なのに。溜息が出る。二十分ぐらい待てばいいだろうか、腕時計を見ながらのろのろと冷えたベンチに腰を下ろした。
『大変ご迷惑をおかけしますが』
それからしばらく経って。降ってきたのは、冷え切った身体に追い打ちをかけるようなアナウンス。ちっとも申し訳なさそうに聞こえないふてぶてしい声に腹が立つ。あと三十分? ふざけるな。
くしゃみをしながら心の中で悪態を吐く。
でも本当は分かっている。悪いのは神様でも、先輩でも他の誰でもなくて。
私。
「ばっかじゃん」