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還るべき場所・2/3

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それは確かにあった。そして、ただの不思議な夢から現実へとリンクさせる証拠であった。

そこにはうっすらと、小さな足跡があった。

あの少女が…感染源かもしれない。





8月17日 17:30




 吐き気がして結衣の部屋から飛び出した。もう限界だった。外へでて初めて息が止まっていたことに気づいた。まず深呼吸をして、あのボロい錆びかかった手すりに支えられながら、階段を下りた。もうあの部屋に戻ることは出来ない。自分を落ち着かせるため、少しずつ陰っていく西日を浴びながら、原付を押して歩いた。僕が生まれてから積み上げて来た現実は、脆くも崩壊してしまっていた。
 僕は物知りだと思う。まだ二十歳だがマクスウェルの方程式を知ってる。シュレーディンガー方程式も知ってる。電子の存在確率が波動関数で定義されることも知ってる。パウリの排他律も知ってる。もつれ合い量子対も知ってる。だから量子テレポーテーションも知ってる。ベル測定も知ってる。アリストテレスの考えも知ってる。プラトン哲学も知ってる。魂にも原子がある、なんて言った哲学者がいたことも知ってる。宇宙の大構造もしってる。インフレーション宇宙論も知ってる。もちろん相対性理論もしってる。スターボウも知っている。絶対に無理だが一度は見てみたい。アインシュタイン・ローゼンの橋も、シュバツハルト半径も、事象の地平面も、この宇宙が終わるとき二通りパターンがあり得ることも、知ってる。実は人の体は自分の細胞の数より菌の数の方が多いことも知ってる。動物が筋肉を動かせるのは細胞内のミトコンドリアが酸素からアデノシン三リン酸を合成してくれているからだと知っている。お酒のエタノールに近いのに、メタノールを飲むとアシドーシスを起こして最初に網膜が焼けて失明することも知ってるし、平均的な大人で22cc位で死ぬことも知ってる。これでロシアで問題になったことも知ってる。他にも普通の人は知らないことを沢山知っている。そして何より、他の誰かは知っていても僕は知らないことがもっと沢山あることも勿論知っている。

けれど、世界中の誰も知らないことが僕や結衣に起こった。

人目も憚らずに、頭の中の漂っていた靄が爆発した。
 「わかったって何だよ!!お爺ちゃんの言うとおりって何だよくそぉ!!」

 いつの間にか日が落ち、薄暗くなっていた。路肩の草木も微動だにしないほど風がなく、日中にコンクリがため込んだ熱が、空気が冷めることを許さないでいる。僕はじっとりと汗をかいていて、喉もカラカラだった。
 気が付くと少し前に佐藤と来たスーパーの前を通りかかっていた。何の変哲もないスーパーの、人工的な蛍光灯の光が、何か救いの手のように見えた。クラクションを鳴らされながら、無意識に道路を渡り、スーパーの駐輪場へ行く。何でもいいから、喉を潤したいと思っていた。

 2重の自動ドアを抜けると、蛍光灯がまぶしかった。トマトやピーマン、パプリカ、タマネギ、ジャガイモ、オレンジなど沢山の野菜と果物。その鮮やかな色と少し青臭い空気。そして楽園かと思うほど涼しかった。それらが火照っていた僕の体と頭を冷やし、現実感を引き戻してくれた。そしてハッとして、ようやく今の自分の身なりの酷さに気付き、トイレに入った。冷たい水で顔を洗い、鏡を覗いた。いつもの自分の顔だが、少し焼けたかもしれない。鼻の頭が赤くなっている。それにこっちは怪我の所為だが、Tシャツの脇も赤く滲んでいる。ところが脇汗も大量にかいた所為かあまり目立たなかった。脇汗に助けられるとは…笑える。
 「よしっ!」
そういって頬をパンッと叩き、気合を入れなおした。…まずは飲み物だな、かっこつかないけど。スーパーの中を歩き、飲み物コーナーを目指した。もし12日に佐藤と来たときに、結衣に気付いて話しかけていたら何か変わってたかな?そう思いながら…。
 
 (…お茶か、スポーツドリンクか、コーラか…うーん。)
飲み物を選んでいると、最近見覚えのあるお茶を見つけた。一瞬あれ?と思った後、中谷さんにもらったものだと思いだした。とりあえずそのお茶と、レジ横にあったチョコバーを買った。
 (これ以上は僕だけではわからない。中谷さんに聞いてみるしかない。)
駐車場の縁石に腰を下ろし、チョコバーを頬張った。腹が減ったら何とやら、だ。そこで分かったのはチョコとお茶が合うってことだった。意外だ。
 さて。僕は携帯を取り出した。中谷さんは僕よりもずっと辛いに決まっている。だけど……申し訳ない気持ちになりながら、通話ボタンを押した。
 「もしもし。」
 「もしもし、大沢です。」
 「ごめんなさい、今はちょっと…」
 「わかってます…でも!…結衣さんの日記を見ました。」
 「…日記?どこでそれを?」
 「……ごめんなさい、勝手に部屋を漁りました。どうしても真相が知りたくて…そしたら、あの晩…あの16日未明の時のことが書かれてあって…結衣さんは部屋を出ていく前に、いろいろと書き残していました。『私分かっちゃった。お爺ちゃんの言ったとおりになった。いしを 時間がない。』などと…。」
 「そう…ですか…」
 「気にならないんですか!?」
 「……………」
 「何か、ご存じでしたらお願いします…教えて頂けませんか?」
 「結衣、私の父に聞かされていたんですね…」
 「…?」
 「私の父がイタリア出身なのはご存知ですか?」
 「はい、結衣さんが教えてくれました。」
 「その私の父がまだ若く、イタリアにいたころ、父の兄が高熱を出しました。彼はその後、突然行方不明になり結局帰ってこなかったそうです。…彼は成り立ての医師でした。」
 
(結衣と似ている…)
 
 「…続けます…父は恐ろしくなり、日本の終戦後にこちらに渡りました。日本なら安全だと思ったのだそうです。そして結婚し、私を授かりました。」
 「安全??」
 「父には思い当たることがあったんです。父の家系にずっと続く風習です。
   ―――『ベルティノッティを忘れるな、我々に医師の資格はない』…」
 「…何ですかそれ…じゃあ風習に逆らったから結衣は死んだって言うんですか!!」

中谷さんは、僕が口を挟む隙を与えないように一気に話し出した。

 「……この風習の原点は、父の祖先にあたる1600年代のミラノのペスト医師ジェロラモ・アパドにあります。私達には代々彼の手記の写本が受け継がれてきました。とは言っても手記の1部分だけですが…原本は今ミラノの歴史博物館に貯蔵されていて、一般の方が見ることはできません…とにかく私も父にその写本を読み聞かされていたので、今でも内容をよく覚えています…。
1631年ミラノではペストが大流行していました。そのころはまだ、有効な治療手段がなく1日に何百人も死亡していたそうです。ペストが黒死病と恐れられていた時代です。感染の鎮静化を図るため、ペスト患者は例外なく隔離施設に幽閉され、ほとんどの患者はそこで死を迎えました。アパド医師は発熱のある患者を診断し、隔離施設に入れるかどうかを判断することしかできず、歯痒い思いをしていたそうです。
作品名:還るべき場所・2/3 作家名:TERA