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還るべき場所・2/3

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そして激しい雨が続いていたある日、アパド医師はミラノ郊外でベルティノッティ親子と出会いました。父の名はカルロ、娘はサーラと言ったそうです。カルロは感染していませんでしたが、わずか5歳の娘サーラはすでに黒死病を発症し、体中黒い痣だらけだったそうです。アパド医師は経験上サーラがもって2日だとわかっていましたが、施設に入れるしかありませんでした。カルロが懇願する中、アパドはサーラにペスト患者用の、白い服を着させたそうです。これは私の父の考えですが、カルロさんは愛する娘が施設内で1人孤独に死を迎えることに耐えられなかったのでしょう。カルロはサーラを抱いて逃走しました。
そしてすぐに追いかけたアパドはティチーナ川沿いにあった、小さな教会の裏で親子を発見しました。2人は教会にも入れてもらえず、裏でひっそりと、ただひたすらに祈っていたそうです。アパドも本当に心を痛めていて、祈りが終わるのを離れて待ったそうです。隔離施設は飽和状態であったため、患者以外は入れませんでしたが、何とかカルロさんも一緒に入れてあげられないものかと考えながら…ですが悲劇が起こりました。カルロがアパドに気づき、サーラを抱いて川へと走り出しました。そして、増水したティチーナ川を目の前にしてこう言い放ったそうです。
 『聖ロクスが許さない。お前を許さない。お前の子が医師になることも許されない。』
そしてサーラと共に荒れるティチーナ川に消えていきました。
 ベルティノッティ親子はとうとう発見されず、アパドはその日の出来事をきっかけに、医師を辞めました。そして生涯忘れることが出来ず、自分の子孫にも語り継がせようとしたんです。これが私の知る全てです。」

僕は圧倒され、言葉が出なかった。少しの沈黙のあと中谷さんが続けた。

 「………報いだなんて…そんなもの迷信です…」

そんな馬鹿な話があるか…昨日までならそう言えたはずだが…今は違った。
中谷さんは、また生気のない声で言った。

 「…もう、いいでしょう?結衣はもう死んだの…ただ溺れて死んだんです…」

そして、唐突に電話は切れた。僕はしばらくの間、ただただ虚しさを感じていた。

 ――――――あの黒い霧の少女はサーラ。

だが、結衣に起きてしまったことはもう変えようがない。中谷さんの言うとおり、それが事実だ…けれど結衣の存在が、ただ無意味に消えてしまったなんて、思いたくない。

 スーパー入口横の電気殺虫器が、時折バチッっと音を鳴らしている。今一瞬の煌めきと共に消えた虫には魂や思念があったのだろうか。それから、人間にも。だとしたら人間はなんと身勝手なことか…中国の大昔の思想家、荘子は夢から目が覚めて思ったそうだ。『今私は蝶になった夢を見ていた。それとも私は人間になった夢を見ている蝶なのだろうか。』今僕が見ている光景も、体験も、現実とは限らない。あの夢のように世界はあやふやで、僕にとっての世界はただ目を瞑り、呼吸を止め、耳を塞げば消えてなくなる。不確定性原理と似たようなもんだ。では確かなものは何がある?魂とでもいうのか?
魂といえば、ユングの心理学における集合的無意識の概念を想起させる。ユングは分析心理学者で、深層心理を探るうちに、人間はみな元型と呼ばれる、統一された深層心理を持つことに気が付いた。我々の意識はそれを認識することはできないが、魂の中心に作用し、意識や自我に影響を与えているというのだ。つまりは人類の魂は深いところで繋がっている、あるいは同じ場所から生まれたとも解釈できる。
それはプラトンのイデア界の概念にも繋がる…。魂の故郷である時間を超越したイデア界…。この世界が、イデア界のように全てが畳み込まれた、より大きな存在の影であるとしたら…肉体が死して魂が還り、時間を超越して新たに現実に影を落としても何ら不思議はない。魂や意識に関する大昔の哲学者の考えは間違っていなかったのかもしれない。
 (そうだったらいいのにな)
そう思いながら立ち上がり、今の荒唐無稽な思考を頭から追い出した。そして原付のハンドルを握りしめ、現実の感覚を確かめた。




8月17日 19:40




 あの楽園の様なスーパーのおかげで、原付にのっても怪我をしないで済む状態に戻れた僕は、寮へと向かった。楽園に比べたらなにか罰を受けているかのように蒸し暑い寮に戻るのは、気が進まなかったが仕方がない。ライトに照らされては後方に消えていく、虫達の間をすり抜けて原付を飛ばした。真っ暗な田舎道を抜け、ちらほら街灯が見え始めたキャンパス横の道を通り抜けると、いつもの古めかしい寮だ。風呂もトイレも水道も共同。6畳1間。だが電気水道込みで2万なら文句は言えない。ここで何年も過ごせれば、僕はもう大体の場所で生きていけると思う。
 部屋に入ると予想通りの暑さだった。とにかく窓をあけ、扇風機を回した。そして、僕が持っている数少ない近代的アイテムであるPCの電源を入れた。調べたいことがある。
 (聖ロクス…)
 
 僕は宗教にはあまり詳しくない。カトリックが、プロテスタントやギリシャ正教と同じようにキリスト教の一派であることくらいは知っているが…。日本人は殆ど無宗教と言えるがそれは幸せなことかも知れない。そもそも様々な宗教がなぜ必要だったか、何者にも抗えない神達が世界中でなぜ求められたか…それを考えればわかる。戦争や虐殺、飢餓、愛する者の死、そんな苦しみの中、生きなければならなかった人々にとって、最後の拠り所だったのだろう。
 そんなことを考えている内に、PCが起動した。さっそくブラウザを立ち上げて、検索窓に聖ロクスと打ち込んでエンターキーを押した。簡単にヒットした。
 (そんなに有名な聖人だったのか)
僕はそのページに飛んだ。
 (なるほど、そういうことか…)
聖ロクスはカトリックの有名な聖人で、ペストに対する守護聖人だった。中谷さんやカルロが聖ロクスと口にしたのは、古くからヨーロッパで信仰されていたからであった。

  聖ロクス(1295年 - 1327年――――――――――8月16日没)

 (まさか)

中谷さんが病院で僕に聞いたことを思い出した。
 (……大沢さん、今日は、何日ですか?)
 (??……16日です。8月…16日です…)

 偶然のわけが無い。結衣もこれに気が付いていたのか?これに気付き、ベルティノッティ親子の悲劇を知っていたなら…?ただの風邪でないどころか、普通のペスト敗血症でもないことに気付く…!
…ようやく『わたしわかっちゃった』の真相がわかった…。結衣は目覚めてすぐそれが「報い」であることを理解した。そして霧による感染拡大を防ぐために、今井さんを追い出し、すぐに到着するであろう母を守ろうと、キャリーケースをもって行方をくらませたんだ。
そして行先は…あそこしかない…!!

作品名:還るべき場所・2/3 作家名:TERA