現代異景【プレ版】
何がなんだかわからなくて、でもとんでもなく怖くて、僕は慌てて姉貴の部屋に戻りました。ドアを閉めて、冷や汗だらけの僕を見て、姉貴は小さく、何にもいなかったでしょ──って言いました。
「言ったって、どうしようもないんだから」
「どうしようもないって──」
──どういうことだよ。
聞いたけど、姉貴は相変わらずベッドの足下辺り、何にもないところをじっと黙って見詰めてるだけで、答えはない。
そうこうしている内に、またあのぎしっ──ぎしっ、ぎし──って、階段の軋みが聞こえてきた。
──これは、
両親の悪戯じゃない。
とっさにそう思いました。
もうここは僕が住んでた家じゃない。
僕が出て行ってから何があったのかはわからないけど、全く別の家になってしまった。
こんな家に暮らしていて、まともでいられるはずがない。
一階からはテレビが大音量で聞こえてくる。母親がそれに負けない声でげらげら笑ってる。父親の姿は見えない。あれだけうるさいのに、注意しに行く様子もない。階段はぎしぎし鳴り続ける。
「──何にもいないよ」
姉貴は声まで疲れ切ってました。
もう全部諦めた、って感じの声。
僕はもう、何がなんだかわかんなくなって、とにかく階段の軋みがあんまりにも耳障りで──ドアが壊れるんじゃないかっていうぐらいの勢いで廊下に飛び出ました。
──誰もいない。
誰もいないんです。
でも、ぎし──ぎしっ、ぎし──って、軋む音だけは確かに聞こえる。
軋みが少しずつ大きくなって、二階に近付いてくる。
ぎし。
ぎし──ぎし。
ぎし──。
「──何にもいないでしょ」
僕は──悲鳴を上げました。
部屋で寝てたはずの姉貴が、いつの間にか後ろに立ってたんです。
こっちの肩に手をかけて。
父親みたいに、ニヤニヤ笑って。
「──もうどうしようもないでしょ?」
──言っても仕方ない。
──どうしようもないでしょ。
──颯太。
僕は──気が付いたら姉貴を突き飛ばして、階段を駆け下りてた。
居間から半分顔を出してニヤニヤ笑ってる父も、テレビの前で白目を剥きながら笑い続けてる母親も無視して、家を飛び出しました。
──無理だ。
何がかはわからない。
けど、もうあの家は駄目だ。無理だ。助からない。
自分でもわけがわからないけど、とにかくそのときは繰り返し駄目だ、無理だって単語が頭の中でぐるぐる回ってたんです。
それから慌てて駅まで走って、来た電車に飛び乗りました。一人暮らししてるアパートがある駅まで着くと、すぐに電車から飛び出して、アパートまで走って戻りましたね──風呂入って、着替えて、さっきまで着てた服はビニール袋に詰めて、他のゴミと一緒に混ぜて捨てました。もう分別とか言ってられる状況じゃなかったですよ。とにかくあの家の湿気と嫌な臭いが染み込んでるんじゃないか、それがあの階段を上り下りしてた何かをおびき寄せてしまうんじゃないかって、そればっかり考えてましたから。
ゴミ捨て場にビニール袋を置いて、部屋に戻ると、留守電が二件入ってる。
両方とも、実家から。
──駄目だ。
──これを聞いたら駄目だ。
すぐに電話線を外して、別の電話機を買いに行きました。
留守電が入ってた方の電話機は、粉々に壊してから、また燃えるゴミに混ぜて捨てちゃいましたね。幸い、バレずに持ってってくれて、助かりましたよ。
それ以来実家からは連絡もないし、こっちからも連絡は一切してません。
電話はもちろん、年賀状なんかの遣り取りもしてないです。
二度と帰るつもりもないですね。
あの家は──もう、駄目になったんだって、諦めてますから。