現代異景【プレ版】
玄関から一歩中に踏み込むと、気持ち悪さは一層酷いものになりました。
胸苦しいし苛々する。空気が重いし、生ゴミをずっと放置してたみたいな臭いは一層酷くなる。廊下は少し体重をかけるだけでギシギシ鳴るし、まだ昼間のはずなのに家中電気がついてて、それでもまだ暗い。こんな家じゃなかった、ここまで酷くはなかった、やっぱり帰ってくるべきじゃなかったって後悔し通しでしたね。帰れるなら帰りたかった。でも姉貴の見舞いに来たんだし、顔も見ない内に帰るわけにはいかないじゃないですか。
もう義務感だけでしたね。
母親はすぐに台所に引っ込んで馬鹿みたいな音量でテレビを見始めるし、居間から出てきた父親はずっとニヤニヤしてこっちを見てる。挨拶しても「ああ」だの「うん」だの言うばっかりで全然人の話を聞いてるようには見えない。癌にでもなったんじゃないかってぐらい痩せてて、骨と皮だけになるっていうのはこういうことを言うんだってぐらいでした。
──駄目だ。
この家は駄目だ。
少なくとも僕が住んでる間は、まだマシだった。
けど今はもう取り返しがつかないぐらい駄目だ。
はっきり悟りました。何があったのかは知らないし、知りたくもないけど、この家はもう僕が住んでた頃の家じゃないんだって。僕の居場所はここにはもうないんだって、嫌でも思い知りました。
姉貴には悪いけど、顔見せたらさっさと帰ろう、本当に酷いなら入院なりなんなりするだろうから、そのときに改めてお見舞いに行こう。とてもじゃないけど泊まれるような状況じゃない。
両親のことは無視して、姉貴の部屋がある二階に向かいました。
階段も不気味なぐらい軋む。
段差を一歩上がるごとに、どんどん空気が沈んでいく。
心臓は痛いぐらいバクバクしてるし、冷や汗が止まらない。
──勘弁してくれ。
何だかわからないけど、とにかく頭の中で誰かに謝りながら、何とか階段を上りきりました。上がってすぐ右側の部屋が姉貴の八畳間で、ドアには姉貴が昔小学生だった頃に授業で作ったネームプレートがかかってましたね。そこだけは未だに昔のままで、少しほっとしたのを覚えてます。
ノックして、
「姉ちゃん、大丈夫?」
って声かけたら、
「──颯太?」
姉貴の声を聞いて、ああ──まだこの人はまともだ、って安心しました。
部屋は何だか妙に子供っぽいっていうか、昔っから変わらない姉貴の部屋でしたね。ぬいぐるみとか小物とかが一杯飾ってあって、十代の女の子っぽいって言うんですかね。僕、あんま女の子の部屋って入ったことないんで、比較とかはできないんですけど。とにかく普通の部屋でした。電気もついてないし、十分陽の光だけで部屋は明るい。空気も濁ってない。
姉貴はベッドに寝てて、少し辛そうな顔してました。病気の具合が良くないのかなって思ったんですけど、どうもそういうわけでもないらしい。何て言うか、疲れ切ってる人間ってこういう顔するよなって感じの、全然覇気のない顔でした。肌の色は真っ青で、血管が浮き出てひどい有様で──この人はもう長くないですって医者に言われたら、そうなんだって信じてしまいそうな、そんな状態。僕はまあ、両親とはともかく、姉貴とはそれなりに仲も良かったんで、そんな状態の姉貴を見て凄く悲しくなりましたね。この家は気持ち悪いけど、お見舞いには来て良かったって思いました。姉貴は──嬉しそうでもあり、辛そうでもあり、何とも言えない複雑な顔をしてたのが記憶に残ってます。
「颯太。帰ってきたの」
お土産の梨をベッド脇のテーブルに置いて、僕はキャスタ付きの椅子を転がして姉貴の側に座りました。
「うん──ほら、ずっと帰ってなかったし。何だか大変だっていうから、心配でさ」
──そう。でも心配いらないよ。
姉貴の、蚊の鳴くような顔。
とても大丈夫には見えない。でも、何を聞いても大丈夫、心配ないを繰り返すだけ。
大丈夫なわけないだろ、病気がひどくなってるとしか思えない──そう言ってはみたんですけど、そんなことはない、病気なら少しずつだけど良くなってるって言うんです。
心配をかけまいとして言ってるのかとも思ったんですけど、どうもそういう様子でもない。
押し問答するつもりもなかったし、実際姉貴の体のことですから、そういうものかと思って引き下がりました。
一時間近く──かな。
家を出てからの話とか、会社の話とかして。
まあ主に話すのは僕で、姉貴はそれを聞いて笑ったり、頷いたり、たまに細かいことを聞き返してくるぐらいでしたね。逆に姉貴に何か聞いても、特に変わったことはない、僕が出て行く前と何にも変わりはないって言うばかりで。それでも、久し振りに姉貴と話せるのは嬉しかったし、楽しくもあったから、僕はくだらない話を続けてました。
さすがに少し話し疲れて、ふっと気を抜いたときに──ぎし、って音が聞こえた。
部屋の中からじゃない。
部屋の外から、籠もるような音が聞こえる。
ぎっ、──ぎっ、──ぎぃっ。
ゆっくりと──本当にゆっくりと、でも確かにその音は少しずつ大きくなってくる。
父か母か、上ってきたのかと思ったんですけど、どうもそれにしては様子が変だ。ぎっ──ぎっていう音が次第に大きくなったかと思えば、今度は段々小さくなる。それが繰り返すんです。階段を上ったり下りたりしてる。
──何してるんだ。
両親の様子は最初からおかしかった。あの人達、ついに頭がどうかしたんじゃないかって思いました。何回も上り下りを繰り返して、階段の軋む音が耳障りだから止めろって言いに行こうとして、席を立ったんです。
途端、姉貴が凄い勢いでこっちの服を掴んで、
「──何にもいないよ」
──何にもいないって。
そんなわけはない。
今だって音は続いてる。ちょうど階段の一番上まで来て、また下りるところなんです。
「鬱陶しいし、止めるよう言ってくるだけだから」
「言っても仕方ないよ」
姉貴は──何だか、疲れ切った顔でした。
こっちの服を掴んではいるけど、僕の方を見てはいない。
じっと黙って俯いたまま、ベッドの足下辺りを睨んでる。
何にもない空間をじぃっと睨んでるんです。
その間も階段の軋みは続いてました。一階に下りて、また二階に上がってくる。まるでこっちを馬鹿にしてるみたいにゆっくり、時間をかけてぎしぎし、ぎしぎし階段を軋ませてる。頭に来たし、姉貴の様子がおかしいのも何だか妙に怖くて、とにかく一言言ってくるだけだからって無理矢理手を解いて、ドアを開けました。廊下は生温い空気が充満してて、入ってくるときに感じた悪臭は頭痛がするぐらいになってた──こんな臭いのする家で暮らせる人間なんているはずがないって思うぐらいの、ひどい臭いでしたよ。暗くて湿気った廊下に、そんな臭いが漂ってる。
でも──誰もいないんです。
ついさっきまで、確かに階段を上り下りする音は聞こえてたはず。大きい音だったし、二階に来たなって気配もしたんです。でも、誰もいない。慌てて階段を下りて逃げたんだとしたら、駆け下りる音がしなきゃいけないはずなんですけど、そんな音もしなかった。
──空耳かな。
けど、姉貴もあの音は聞いてた風な言い草だった。